影の復讐

                     
ひと頃は17歳をめぐる事件が頻繁に報道されたが、最近は、幼い命が奪われる事件が相次いでいる。小学校にナイフを持った男が乱入して児童多数を殺傷した事件。母親が留守の間に侵入した近所の男が幼い子供たちを刺し殺した事件。母親が我が子を殺し、ゴミ袋に入れて運河に投げ捨てた事件もあった。その他にも親が子供を虐待したり殺したりする事件が報道されている。大人になるチャンスが与えられる前に抹殺されてしまった子供たちのことを思うと心が痛む。かつても間引きと呼ばれる子殺しがあったとことは知っている。しかし現代の子殺しはそれとは性格を異にしている。

京都で学んでいた頃、ユングの全人化の過程(インディヴィジュエーション・プロセス)という概念を知った。そのプロセスのモチーフを神話やお伽噺の中に見ることができると知ったとき、すぐに「桃太郎」が頭に浮かんだ。「桃太郎」は立身出世の物語、あるいは勧善懲悪の物語であると理解することもできるが、全人化の過程のモチーフが組み込まれたまったく異なる物語として解釈することもできる。

お伽噺に登場するお爺さんとお婆さんは多くの場合、両親であることが多い。桃太郎のお婆さんは母親であり、お爺さんは父親である。お婆さんが川から持ちかえった桃は、女性器を象徴している。出てきた赤ちゃんは男の子で、それはユングの言う原型のひとつ、アニムスである。女性の心の中の理想の男性像。

桃太郎は大きくなり、鬼が島へ鬼退治に行きたいと申し出る。お爺さんとお婆さんは引きとめたが、桃太郎は鬼が島へ行くことをあきらめない。彼らも最終的に桃太郎の願いを許可する。
胎児が生き長らえるためには、ある時点で子宮から出なければならない。胎児がそこにいつづけることは、母子両方にとって死を意味する。さらに、子供が一人前の大人になるためには、親から独立することが必要である。その意味で、お爺さんとお婆さんから離れるという桃太郎の決断は正しかった。
しかし、人が成長するためには、親から物理的に離れるばかりでは充分でない。それは外的な距離の取り方であるが、より重要なのは内的な距離の取り方である。「桃太郎」では、内的な距離の取り方が、3匹の動物と鬼とのかかわりを通して語られる。
鬼が島へ向かう途上、犬、猿、雉という3匹の動物と出会う。ユングは、集合的無意識には人間の進化の過程がすべて納められていると言う。そこにはあらゆる動物的なものが蓄えられている。
桃太郎は、これらの動物を追い払ったり、殺したりせずに、きび団子を与えて家来にする。つまり内なる動物的なものとの適正な距離を保ったのである。ユングは、無意識の中の動物的な衝動を無視したり抑圧したりすることは危険だと言う。それはシャドウ(影)として無意識の中に閉じ込められ、思いがけないところで噴出し、危害を加える。
最終的に、桃太郎は、鬼が島へ行く。「鬼」は桃太郎の中の自我を表している。自我は人間の意識の中心であって、人が人であるためには不可欠なものである。しかしそれは同時に自分と他人を区別する意識であり、対立を生じさせる原因でもある。
ユングは人間の意識と無意識を統合するものとして自己を想定する。全人化の過程とは、自己実現であり、それは、自己によって意識と無意識が調和され統合されるプロセスなのである。自我(鬼)を殺してしまっては元も子もない。鬼退治とはいえ、鬼は殺されていない。すでに家来になった3匹の動物の助けを借りて、桃太郎は鬼も家来にするのである。
鬼からもらった金銀財宝は、全人化の過程を経た桃太郎自身の人格と見ることができる。その宝を持って両親に会いに行く。鬼が島へ行く前の桃太郎は子供であった。鬼が島から戻ったとき、彼は、対等な人格として両親の前に立っていた。我が子に桃太郎のように成長して欲しいと望まない親がいるだろうか。
少々こじつけの感はあるが、「桃太郎」と全人化の過程を関係づけることができたとき、ぼくは興奮して何人もの人にこの話をした。するとある女の子が、「それは男の子の全人化の過程を説明するにはいいけれど、女の子についてはどうなの」と聞いた。
すぐに「かぐや姫」が頭に浮かんだ。この物語では、お爺さんが山へ竹を取りに行く。桃と竹。竹が何を象徴しているか言うまでもない。お爺さんが根元が輝いている竹を切ったとき、そこから出てきた赤ちゃんは、女の子であるはずだ。男性の心の中の理想の女性像、アニマなのだから。
かぐや姫と名づけられたその女の子は、やがて大きくなり、月に一度、満月を見て涙を流すようになる。これが何を象徴しているか想像することはそれほど難しくない。彼女は肉体的に大人になったのである。妊娠する準備ができたのだ。彼女は美しく成長し、時の帝を含む、有力者たちに求婚されたが、決して応じなかった。明確な意志を持った一人の女性に成長したのである。明らかにこの物語にも全人化の過程のモチーフを見て取ることができる。

過去がすべてよかったとは思わないが、今子供たちが置かれている状況はかなり厳しい。問題はそれが子供たちの責任ではないということである。
ユングは人類共通の無意識としての集合的無意識とは別に、ある文化圏に属する人たちに特有の文化的無意識というものを想定した。日本人に共通する文化的無意識があるとするならば、現在の社会の混乱は、文化的無意識の中に追いやられた共通の「影」の復讐であると考えることもできる。
幼い子供を殺すという罪を犯した大人や親たちがその罪を償わなければいけないことは当然であるが、彼らもまた犠牲者であるということもできる。何かが根本的に変わらない限り、この混乱は続くだろう。

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