OREAD RECORDS
オーリアッド・レコード
『九つの物語』ノート
前作『祈り』がぼくの最後のアルバムになるだろうと思っていた。しかし多くの方々から「菅野有恒」と「夢のブックストア」をCDにしてほしい言われ、新しいアルバムを作りたいと思うようになった。そう思ったとたん、幸福で不思議な連鎖反応が次々と起こり、小山卓治、やなぎ、辻井貴子、石崎信郎、神谷一義、小山雅嗣の各氏から協力していただけることになった。『九つの物語』が世に出ることになったのは彼らとの不思議に満ちた出会いのおかげである。昨年末、ちょっとした手術をし、少々気弱くなっていたせいだろうか、今度のアルバムは遺言のようなものにしたいと思った。そこで新しい歌以外に、LPレコードや異なるCDに収められている家族の歌をまとめて入れることにした。ぼくがこの世を去ったあとも、ぼくのことを思い出すことができるように。願わくは、極めて個人的なこれらの歌が、聞いてくださる方々の心にも届いてくれますように。
1.オーリアッドバンドの歌:85年8月にオーリアッドはオープンした。当時勤めていた短大で試験監督をしていたとき、退屈紛れにノートに書いた言葉からこの歌が生まれた。オーリアッドはぼくにとって子供のようなもの。息子たち同様、大きな喜びを与えてくれた。ときにはやっかいな息子でもあったが。何よりも、オーリアッドを通して多くの方々と出会えたことに感謝している。
2.薫子:この歌を書いたのは、27歳のとき。当時ぼくは、ルソーの言葉に心酔していた。「もし策謀もせず、取引きもせず、人に従属することもしないで生き長らえる正当でしかも確実な方法があるとすれば、それは自分の腕の労働で自分の土地を耕して生活することだ」。82年3月、完全な自給自足は無理としても、食べるものぐらいは自分で作りたいと、幼い頃に住んでいた村へ5歳と1歳の息子を連れて戻ってきた。「どうして京都から、こんな辺鄙なところへ戻ってきたのか」とそのころよく聞かれた。最近もある人から「奥さんも息子さんたちも大変でしたね、三浦さんに振り回されてきたんですね」と言われた。そういう面がなかったわけではない。しかしその決断は間違っていなかったと思っている。彼女もそう思っているかどうかは定かではないが。
3.旅立つおまえに:95年4月、長男が大学へ入学するため東京へ出ていくとき、中央道のバス停まで送っていった。風はまだ冷たかったが、春の日差しが降り注ぐ美しい朝だった。バスが出たあと振り向くと、青空に南信パルプの白煙が垂直に上っていた。家に戻りこの歌を書いた。この歌を録音するとき、「コーラスの部分に奥さんにも入ってもらったらどうですか」という小山さんの一言で妻も参加することに。それはこの歌の主旨からして極めて適切な助言だった。
4.あの果てしない大空へ:96年4月、次男がニュージーンランドの高校へ留学するため、家を出ていく前日に書き、家を出る直前に歌って聞かせた歌。彼が発ったあと、母から「15の子供を一人で外国へやるなんて、おまえは残酷な親だ」と言われたことがある。母の死後、ノートに書かれていた短歌が見つかった。「勉学にニュージーランドへ行きたりし孫を思へば心いたみし」。あれから20年。次男はその後、彼の地の大学を卒業し、現地の女性と結婚し、一児の父になり、今もそこに住んでいる。母は今の彼を見たら、あのとき彼が恐れないで飛んだことは間違っていなかったと思ってくれるだろう。
5.即宗和尚:辰野町の朗読の会「ひびき」の方々から依頼され、林栄道著『大愚即宗和尚行状記』を読んで書いた歌。最初、彼のことを歌にするのは難しいと思った。村人に慕われ、猫やネズミと遊び、蚤さえ殺さない。品行方正、清廉潔白。正し過ぎてドラマにならない。しかし何度も読み返すうちに、不思議な感動を覚え始めた。原担山と久我環渓という江戸から明治にかけての二人の高僧の下で修行し、徳行の誉れ高かった彼が「一切の栄転を謝絶して」、信州の寒村の山寺で一汁一菜の生涯をまっとうしたと書かれていたからである。出世して、永平寺か総持寺の管長にでもなっていたら、歌にはならなかっただろう。
6.電線の鳥:初めてレナード・コーエンの歌を聞いたのは68年の夏、サンタバーバラに住んでいたとき。部屋の開いた窓を通って、不思議な歌が聞こえてきた。今にも消え入りそうな低音で歌われる読経のような声。コーエンの「スザンヌ」だと友だちが教えてくれた。そのときからボブ・ディランと共に彼はぼくの英雄になった。外に向って激しいメッセージを投げかけるあの時代の音楽とは対照的に、彼の歌は静かで内省的だった。「電線の鳥」は翌年出た彼の2枚目のアルバムに入っている。「そんなに多く望んではいけない」という乞食と、「なぜもっと多く望まないのか」と問う美しい女。彼の歌は常に人間存在の根源と深くかかわっている。
7.菅野有恒:いつの頃からか東北に住む人からCDの注文が入るようになった。同時にコーエンやスプリングスティーンの感想も寄せられるようになった。11年3月31日、津波が海辺の町を次々に飲み込む映像を見ながら、彼のことが脳裏に浮かんだ。数ヵ月後、インターネットで彼と奥さんの死を知った。会ったことはなかったが、懐かしい感じのする人だった。彼とぼくは「同じ音楽、同じバンド、同じ服が好きだった」のに違いない。「声を聞いたこともない」と思っていたが、10年以上も前、声を聞いたことがあることを思い出した。ある晩彼から「明日、やなぎという男がオーリアッドへ行くがよろしく頼む」という電話がかかってきた。今回、やなぎさんの全面的協力を得てこのアルバムを作ることができたのは、菅野さんが見守ってくれていたからだとしか思えない。
8.夢のブックストア:82年3月辰野に戻ってきて、田中正幸さんと出会った。田中さんは、以前からぼくの歌を支持してくれていた根橋昌二さんと共に、ぼくの活動を助けてくれた。彼らと夜を徹して飲み、話したことが懐かしく思い出される。根橋さんの訃報も田中さんの訃報も、共通の友人、中村東茂一さんから知らされた。田中さんを評して、中村さんは「まあちゃは、人を傷つけるようなことは一切言わなかった」と語ったことがある。田中さんはいつも誠実で、温厚だった。そして何よりも笑顔が素敵だった。「あなたの素敵な笑顔と・・」と歌うときはいつも、田中さんが近くに微笑みながら立っている。
9.ガビオタの海:77年の晩秋のある夕方、加茂川の堤防にすわり、オレンジ色の太陽が西山に沈むのを見ていた。その時、サンタバーバラ近くの海辺で見た夕焼けのことを思い出し、その情景をノートに書いた。そのノートをもとに、辰野に戻ってから何年かして言葉を加えてこの歌を書いた。「あなたはあの時代そのもので、草や土の香り漂わせていた」と書いたとき、念頭にあったのは一人の女性だった。しかし彼女はあの対抗文化の時代を共有した多くの友だちの代表としてそこに登場している。コーラスの部分は、彼らへの祈りであると同時に、大げさに響くかもしれないが、国を逃れさ迷っている多くの難民の人たちを含むすべての人たちへの祈りである。(2015年11月20日)
『千の風』
1.千の風 (4:42)
2.紙ヒコーキ (4:48)
3.碌山
(10:01)
4.山頭火 (3:05)
5.こおろぎが歌うように (6:12)
6.カムサハムニダ、イ・スヒョン
(7:33)
7.父よ (4:22)
8.丁度よい (3:06)
9.新しい光迎えよう (4:43)
『千の風』ノート
三浦久 vocal, guitar, harmonica
HONZI violin. accordion, mandolin
中尾勘二 klarinette, alto saxophone, trombone, drums, gorosu, percussion,
woodblock
関島岳郎 tuba,
trumpet, recorder, tin whistle, shaker, cymbal, tambourine
Produced by
三浦久
Arranged and directed by 関島岳郎
Recorded, mixed and mastered by
石崎信郎
Recorde at OREAD Studio in Imamura, Tatsuno, Nagano (September,
2004)
Mixed and mastered at Studio Stone Cap in Tolyo (October,
2004)
Design 藤原邦久
Photos 三浦久&薫子
Editorials 神谷一義
Distribution:
メタカンパニー
レーベル:オーリアッド・レコード(OREAD
RECORDS)
商品番号:OR-005
価格:3000円(税込み)
発売日:2004年12月19日
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