Oread Diary May 1-31,2018

Thursday May 31, 2018

大阪の坂本君からほたる祭りライブの予約が入った。彼は44年前、京都産業大学のぼくのクラスにいた学生。そのときつかった教科書は Jimmy Carter の Why Not the Best?で、それを使ったのはカーターがボブ・ディランとディラン・トーマスが好きだと書いてあったから、とぼくが最初のクラスで言ったらしい。去年彼から届いたCDの注文の手紙にそう書いてあった。

手紙には数年前、重い病気にかかり、それを克服し、歩いて四国遍路をやりとげたことも書かれていた。昨年7月、彼は七夕コンサートにきてくれた。それが縁で、今年の1月は大阪で開かれたメディカルキャフェあずまや5周年のイベントに参加させていただいた。彼のおかげで、活動の幅が広がりつつある。

今年のほたる祭りライブには久々に石崎さんが録音にきてくれることになった。体調が悪いと聞いていたが、「大丈夫。神谷さんは大げさ」とのことだった。それで中東フォックステレビのプロデューサー、ヨナット・フリーリンさんのコーエンのテルアビブでのコンサート評をもとに書いた「ありがとう、ミスター・コーエン」を石崎さんにお願いして録音することにした。今日、やなぎさんにもサポートをお願いした。これでヨナット・フリーリンさんへの借りをかえせそうだ。

雅樹は溶連菌に感染し、学校を3日休んだ。今日は元気にでかけていった。土曜日の運動会に間に合ってよかった。日本の小学校の運動会の体験は、きっといい思い出になるだろう。

夕方、写真を撮りながら、小雨の村を歩いた。この村は実に美しい。











Wednesday May 30, 2019

本年度最初の読み聞かせ at 辰野中学校。今朝は宮沢賢治の「告別」を読む。時間が少し余ったので、「雨にも負けず」をアカペラで。

「告別」が書かれたのは大正14年10月25。次の年から昭和が始まり、世界は2つの大戦を経験することになる。上意下達の風潮が強化されつつある現在の情勢にかなり近い。ヒットラーが政権をとり、日本が国際連盟を脱退した昭和8年、宮沢賢治はなくなった。享年37歳。

おまへのバスの三連音が
どんなぐあひに鳴ってゐたかを
おそらくおまへはわかってゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた

もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう

泰西著名の楽人たちが
幼齢弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがやうに

おまへはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管
とをとった

けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう

それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ

すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ

云はなかったが、
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう

そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない

なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ

もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ

みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ

もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ


Tuesday May 29, 2018


今日は業者がきて、玄関に網戸をつけくれた。先週つくはずだったが、業者がサイズを間違えて注文してしまったとのことで、遅れてしまった。ドアを開けたままにしておくと、蜂や虫が入ってくる。ニュージーランドでは、赤ちゃんに昼寝をさせるために乳母車に乗せて、赤ちゃんが眠るまで、近所を歩いてくるらしい。乳母車は眠った赤ちゃんを入れたまま、玄関に入れておく。寒い時は問題なかったが、暖かくなってからは風をとおすため、ドアを開けておくので、虫が入ってくる。家を建てて引っ越してきたのは1982年3月のこと。それから36年が経っている。もう少し早く網戸をつけるべきだった。



業者にはオーリアッドの2階の和室の網戸も張り替えてもらった。家は1982年3月に、オーリアッドは1985年5月に建てた。30年以上も経つと、いろんなところに不具合が生じてくる。

溶連菌という名前は初めて聞いた、Masakiはどうやらそれに感染したようだ。2日ほど薬を飲めば直るとのことなので、今週土曜日の運動会には出られるだろう。明日も学校をやすまなければならないらしい。今日は暑かったが明日は気温が下がるようだ。大人でもこの気温の変化についていくのは難しい。

失われた歌詞のワードのファイルをCDの歌詞カードなどを利用して作成中。スキャナーでスキャンし、それをワードに変換し保存する作業。ややこしいところは次男の助けを借りて。

日大アメフト部の刷新は徐々に進行中。しかし政治の世界はどうだろう。公文書を改ざんしても、ウソをついてもおとがめなし。なんとかならないものか。


Monday May 28, 2018

先日の伊那市西箕輪でのコンサートの主催者から感想文が送られてきた。拙いぼくの歌を楽しんでくれたことが伝わってきた。よかった。そのいくつかを ここに:

*これからの人生の目標を与えられた気がしました。私は戦後生まれで、戦争を直接は知らないのですが、平和のありがたさを大きな声で家族に、そして周囲の人々に訴えていきたいと思いました。家内は三浦さんのコンサートは2回目、孫は昨年伊那東小で聞く機会を得たと休憩時に知りました。ありがとうございました。


*久しぶりに生でお聞きし、いろんなことを思い出し、そして共感し、目頭が熱くなりました。一歩一歩前に進む元気をもらいました。

*心が洗われ、人間の美しさ、やさしを思い出しました。ウソ、ゴマカシ、不幸な事故、事件・・・の日々。一人でも多くの人に聞かせてやりたい。トークライブなんて初めて。きてよかった。(81歳)


こんなふうに感じてくださった方々がいると知ることは大きな励みである。3年前の左手の甲の骨折、それに今年3月の転倒で左手を強打し、長時間ギターを弾くと、手が痛くなって、コードがしっかり押さえられない時がある。でももう少し頑張ってみよう。初心を忘れずに。


Sunday May 27, 2018

朝からひと騒動。Masaki 喘息気味とのことで、午前3時半過ぎ、伊那中央病院へ。ぼくも道案内として乗り込むことに。しかし、車の中でも咳は収まっていたし、診察結果も心配ないとのこと。一安心。運動会の練習が続き疲れているに違いない。

救急医療センターではかなり時間がかかり、結局530デイの作業に間に合わなかった。組長でありながら、申し訳ない。伊那から辰野に戻るまで、どの道路沿いにも地域の人が出て、ゴミを拾っていた。継続は力なりで、長年、総出でゴミを拾うことで、確実にゴミの量は減っている。ゴミを捨てる人も減っているにちがいない。


Saturday May 26, 2018

オープンマイク初回出演順(敬称略):長島功、坂井俊水、垣内彰、赤羽真理、三浦久、森嶋和也。













最近、長島君の歌が充実している。未完成ながら、新曲にもいくつか挑戦している。さだまさしのカバーを歌うシンガーから脱却し、シンガーソングライター長島功の誕生である。



Friday May 25, 2018

午前中は外の作業。畝を2本掘り、先日剪定した梅の木の枝を短く切る。

午後遅く、午睡から覚めたら、外から子供たちの声。外に出ると虫取り網をもった Masaki がいいる。 次男が Chiaki と歩いている。喉かな風景。空にはお月さん。朧月夜を思いだした。

下の段を見下ろしたら、田んぼのあぜ道を歩いている人がいる。まさに朧月夜の世界。

 里わの火影も森の色も
  田中の小路を辿る人も
 蛙の鳴く音も鐘の音も
 さながら霞める朧月夜








Thursday May 24, 2018

ボブ・ディランの77回目の誕生日。いつまでも歌い続けてほしいもの。できたら、再びアコースティックギター1本で。

昨日は雨で肌寒いほどだったが、今日はまだ五月なのに、真夏の暑さ。空の色、木々の色、地面に映る影の色が、真夏のそれである。









日大アメリカンフットボール部の不祥事は大きなセンセーションを巻き起こしている。上位下達の社会。理不尽な命令でも従わなければならない。多かれ少なかれ、組織のあるところ、それはどこにもある。それが嫌で、できるだけ無所属でいたいと思ってきた。腰の軽い奴だと思われていたかもしれない。

上意下達の意識というか、親分になりたいという意識は、誰のなかにもある。気をつけなければ。

Wednesdday May 23, 2018

家人は、諏訪で、東京と野辺山の友人に会うために10時ごろ、出かける。ぼくは小雨の中、猿対策の網を地面に止める作業。途中で金具がなくなり、コメリへ買いに行く。

1月末にパソコンがダウンし、メールアドレスが失われてしまい、「オーリアッド通信」でライブの案内を出せずにいる。住所録も失われたが、年賀状をもとに以前きてくれた人たちを中心にハガキを書いている。


Sunday May 20, 2018

「三浦久/平和を歌うコンサート」 at JA西箕輪支所ホワイエ。









主催者のみなさんのおかげで、とてもいいコンサートになった。休憩10分を挟んで2時間たっぷり話し、歌わせていただいた。今日も、伊那東部小学校の数人の子供たちの感想文を読ませてもらったが、その小学校の4年生の女の子がおかあさんと一緒にきていた、と終了後知らされた。ひょっとしたら彼女は、感想文を書いてくれた子かもしれない。会えなくて残念。

朝日新聞の記者、伊那ケーブルテレビのカメラマン、それにシニア大学伊那学部の責任者、の方々もきてくださった。驚いたのは農学部の千先生、それに北原先生がきてくださっていたこと。朝日新聞の記事を読んだのでと飯田からきてくださった小学校の先生もいた。休憩時間に「ぼくの三浦さんの原点は<純ちゃん>です」というので、後半、「それぞれの道」を歌った。多くの方々に支えられてとてもいいコンサートになった。そうそう、長島君と味沢さんも来てくれた。彼らは今年1月28日の東春近でのコンサートにもきてくれた。垣内さんも写真を撮りにきてくれた。

終了後、近くの喫茶店で、主催された方々との「打ち上げ」。みなさん一様に「よかった」とのことで、十分な準備もできず心配したが、肩の荷が降りた気がした。責任を果たせた気がした。木曽に住む方から、「ぜひ大桑村へもきてください」と誘われた。近々木曽でも歌うことになるかもしれない。



Saturday May 19, 2018

オープンマイク。今夜は赤羽真理さんが都合でこれないとのことで、参加者は坂井俊水、森嶋和也、長島功、三浦久の4人。和気あいあいとしたいいオープンマイクになった。














Friday May 18, 2018

今日は家人に付き合って、諏訪の花尋庵というお蕎麦屋さんと「くらすわ」というお店へいってきた。近々、家人が東京と野辺山の友人と諏訪で会食をすることになり、その会場の下見をしに。お蕎麦も美味しかったし雰囲気もいい。しかし長時間おしゃべりをし旧交を温めるには、駅から近いということもあり、「くらすわ」がいいかもしれない。

2時ごろ帰宅し、しばらく午睡。午睡という言葉がふさわしくかんじられるほどに暑い日になった。今年は1月から、気候の変化が激しい。春夏秋冬がが入り乱れている。

今日は小学校はお休みで、午前中、 Masakiはケールの苗を彼の畑に植える。彼の畑はだんだんと立派になってきた。









Thursday May 17, 2018

朝10時、オーリアッドでたつの新聞の記者に会うことになっている。しかし財布が見当たらない。財布には免許証ばかりでなく病院の診察券も入っている。午後1時から病院で定期健診がある。オーリアッドでの取材がおわったら、そこから直接病院へ行くつもりだった。それができなくなった。とりあえず次男にオーリアッドへ送ってもらうことに。

取材終了後、再度次男の運転で家に戻り、財布を探す。昨日着ていた服や、仕事部屋、寝室を探す。ない。ひょっとして昨日お寺のソファに深々とすわっていた時に落としたかもしれないと、電話をしてみる。ないとのこと。仕方なしに、再度、ないとは思いながら混乱した仕事机をもう一度探してみる。あった、あった。目の前の散乱した紙の下。

西城秀樹の訃報がテレビやネットを駆け巡った。享年63歳。彼に会ったことがある。何年ごろだったか記憶にない。京都時代か、辰野に戻ってからか。学生を引率してヨーロッパへいった帰路のこと。給油で立ち寄ったアンカレッジの空港。人だかりができていた。何事かと見に行った学生が、「西城秀樹がいる」と言う。近づいてみると、確かに、YM CA Young Man の見たことのある男がいた。笑顔でみんなと握手をしていた。人生100年時代、63歳は若すぎる。

病院から戻ると、次男が隣組の人から電話があり、お婆さんが亡くなったと知らされたとのこと。今年は隣組長。隣組の家々をまわり、「道端のおばさん」の訃報を知らせる。享年96歳。ご冥福を祈る。









上から、母の日のプレゼントのカーネーション、デイジー、石楠花、テッセン。


Wednesday May 16, 2018

村のお寺の前住職の本葬が行われた。4月からお寺の総代になったので、ぼくも実行委員のひとりとして参列した。準備や接待のお手伝い要員ではあったが。高野山や長野県内の寺院から多くのお坊さんが参列された。総勢70名ほど。前半はお坊さんたち全員の読経。ぼくはお坊さんたちの近くにすわっていたのだが、その読経の迫力に圧倒された。日光浴ならず読経音声浴に身をゆだねていた。音声のバイブレーションに身心がゆすられ、極めて心地よい気分になった。





精進落としは会場をJAの会館に移して行われた。ぼくは今年の春、居を佐久に移した実行委員の重徳さんの横にすわり四方山話。10年ほど前ぼくが区長をしたとき、重徳さんには大変お世話になった。会議で話がややこしくなると、彼が理路整然と正してくれた。経済や政治に詳しく、彼自身が話をややこしくしたこともあったが。



精進落としが終わり、会館のマイクロバスに乗せてもらい、家に着いたときは4時近くになっていた。慣れないことで疲れたが、様々学ぶこともあった。


Tuesday May 15, 2018

朝から村のお寺の前住職の葬儀の準備。午前は、総代会による境内の掃除。

午後は実行委員会の最後の打ち合わせ。ぼくはお坊さんたちの「案内係」とのこと。

慣れないことゆえ、家に戻ったら疲労困憊していた。体力はますます落ちている。なんとかしなければ。


Monday May 14, 2018

今朝は雨も上がり、実に美しい朝。カリンの木も、ライラックの木も、朝日を浴びてキラキラと輝いている。

Chiaki は外に行くことが好きで、今日は一緒に何度か外で遊ぶ。遊ぶといっても、靴を履いて、庭をよちよち、ときにはトット歩くだけ。そんなことが楽しいらしい。ときどき歩いていたと思ったら、急に止まって振り返り、にっこり笑う。実に可愛い。実に自然。




Sunday May 13, 2018

朝はけっこう寒い。暖炉の薪をとりにいくついでに新聞もとってきた。暖炉に火をつけ、新聞をひらくと、ぼくの顔が写っていた。先日、朝日新聞の記者から電話で取材を受けたのだが、それが今朝の朝刊に掲載されたのだ。

見出しの「フォーク界長老」には驚いた。そんなふうに思ったこともないし、長く歌ってきたというだけで、そう呼ばれるにはあまりにも技術的に未熟である。

しかし、コンサート前に、こんなふうに取り上げられるのはありがたい。この記事を読んで聞きに来てくれる人が少しでも増えてくれたらいいのだが。




記事の最後にぼくの言葉が引用されている。「今の時代、政府の人がうそを言ったりしてあまりにもおかしいでしょう。・・・」。そのような言葉を実際使ったか記憶にないが、ここに引用されているということは、同じ主旨のことを言ったに違いない。ちょっとストレートすぎるかなとも思うが、多くの人がそう思っているのではないか。某政党の党首の「すでに開学している学校のことで長時間議論することがいかなる国政上の意味があるか」みたいなことを言っていたが、ネポティズムと嘘をもとに開学したということは大問題である。

Saturday May 12, 2018

われわれの仲人の邦茂さんの葬儀が長久寺であった。2週間ほど前、長男の星児君から連絡があった。密葬はすでに東京で4月のはじめ、亡くなったすぐあとに行われたと書かれていた。40年ほど前、そのときはまだ京都に住んでいて、家人とふたり、京都から、目黒のお屋敷に仲人をお願いしに、訪ねた。ついこの間のことのよう。結婚したときぼくは29歳、邦茂さんは35歳であった。そのときはわからなかったが、今思えば若い仲人さんだった。ご迷惑をかけたに違いない。

辰野でも何度かお会いしたし、ぼくが東京で歌うときは、よく聞きにきてくださった。横浜の教会風建物でのコンサートも企画してくださった。レナード・コーエンも好きで、ぼくの翻訳を喜んでくださった。ありがとうございました、邦茂さん。ご冥福をお祈りします。

葬儀が終わり、外に出たら、長久寺の牡丹が目に入ってきた。実に見事である。












Thursday May 10, 2018

剪定。裏の物置のちかくの梅の木と、消火栓の近くのナツメの木。両者ともに棘がある。特にナツメの棘は大きくて鋭どい。何度か痛いおもいをした。梅の枝はほとんど切り落とした。ナツメの枝はまだ上のほうが切れていない。


Wednesday May 9, 2018

札幌の川股君から、ほたる祭りライブに参加したい旨のメールがあった。川股君と知り合ったのはまだ京都に住んでいたころ。彼は、1980年年1月に発行された「ユリイカ」のボブ・ディラン特集のぼくのエッセイを読み、会社を退職し、北海道から会いにきてくれたのである。そして退職金で、ぼくを北海道に呼んでコンサートを開きたいと、言う。奇特な人がいるものだと思ったが、同時に嬉しかった。中井君と札幌へ歌いに行ったのが、その年だったか翌年だったか、うろ覚えであるが、楽しい旅になった。阿知波一道さんにお会いしたのもそのときである。人と人の出会いは不思議である。



そのときのチケット。その後、多くの有名なアーティストのコンサートへいったが、いずれのチケットも残っていない。残っているのはこの時の1枚。よほどうれしかったにちがいない。チケット代は確か 300円。


夕方、村を歩く。藤沢さんの庭は、畑同様、手入れが行き届いている。藤もおだまきも実にきれい。





たつの新聞へほたる祭りライブの広告をお願いした。それに「週刊いな」と「週刊すわ」にもイベント情報欄での紹介をお願いした。1月末のコンピュータのダウン以来、メールアドレスが失われたしまったので、いろんな連絡に苦労している。。


Monday, May 7, 2018

一日、雨。緑がさらに深くなる。

午後、買い物から戻ると、次男から「朝日新聞諏訪支局から電話」とのメモがあった。電話をかけると、昨年のシニア大学(伊那)で、ぼくのトークライブを聞いてくださった記者の方だった。5月20日(日)のJA上伊那西箕輪支所講堂での「三浦久/平和を歌う」を取材したいとのこと。ありがたい。しばしお話する。

昨年11月のシニア大学でのトークライブは、いつもと変わった話をしたわけではないが、多くの好意的なフィードバックがあった。今度の「平和を歌う」を主催してくださるロッジ吹上の倉田さんもその一人である。その反応の核が何かわかれば、これからの参考になるのだが。

大量生産、大量消費の世界観の行き詰まりが言われはじめて久しい。しかし人はやはりより多くの豊かさ、より多くの便利さを求めてしまう。

その猛烈な突進力の前では「滅びゆくものの美」を歌うぼくの歌は無力だ。でもぼくの歌の原点はそこにある。ひょっとして共感してくださる方々が増えているのかもしれない。淡い期待。

一人ひとりぼくの周りから音もなく去って行き
ぼくは窓の外の暗闇を見ている
金色の夕焼けはいつの間にか色あせて
野原には風が巻き起こっている
パーティーは終わったよ
パーティーは終わったよ
パーティーは終わったよ
友よ、パーティーは終わったよ


夕方、飯島君から電話があった。先日送った同級会の写真のお礼。長野県産の農産物を使っての食事会が、東京で知事も参加して明日だったか明後日だったかあるとのこと。それに近々トルコへ出かけるとのこと。


Sunday May 6, 2018

同姓の会。祝い殿の掃除。そのあと、その前でピクニック。今年から一軒減って5軒に。かつては13軒あったとのこと。この会も次の世代へは引き継がれないかも。

それにしてもこの村は美しい。





滅びゆくものの美しさか。その美を味わうことができるためには、ある種の経験と成熟が必要である。


Saturday May 5, 2018

オープンマイク初回出演順(敬称略):森嶋和也、坂井俊水、フラワー、赤羽真理、長島功、原田和夫&トモノリ君、三浦久、佐藤宏信。



















Tuesday May 1, 2018

赤羽真理さんが、2種類の油圧式薪割機をもってきてくれて、太すぎて使えなかった丸太を、手ごろのサイズの薪にしてくれた。感謝。北海道に嫁いだ娘さんも1歳2か月の娘とともにやってきた。




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