OREAD Diary
October 1〜October 31, 2004
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October 30, Saturday 2004
午後6時半、中山昭さん来店。その後、五味健一さん、続いて、堀内夫妻が久しぶりにやってくる。ゆっくりとした飛び入りライブの開始。
トップバッターは、五味さん。「終止符」、それにオリジナルで「白いマフラー」と「真実の愛」。次に中山さんが「エノケンのダイナ」「狐の嫁入り」(ギター演奏)、それに「どんどんよくなる」。ギターのテクニックと音色が素晴らしい。久々登場の堀内千晴さん、原語で「枯葉」「ともしび」それに「故郷の春」。いろいろな用事があったようで、3回連続しておみえにならなかったが、お元気そう。
そのときまでに、WISHのふたりが今日のスペシャルゲストの「かっち」こと赤羽勝史さんとやってきていた。先ず芦部さんが「林檎」を熱唱。その後WISHで、「東京」「すこやかに」など。

昨日に引き続きやってきてくれた藤森和弘さんが、「秋桜」「終止符」「水鏡」を歌う。「水鏡」という歌は哀愁のある本当にいい歌だ。第一ラウンドの最後は、大月高志さん。「しろうさぎなまいにち」を歌い、「戦場のピアニスト」の演奏。
休憩後、第二ラウンド。五味さん「「晩鐘」など。中山さん「けだるい二人」「六番町ラグ」など。堀内さん「里の秋」。WISH「月と海」「風のINITIALIZE」。そして「風と森の祭り唄」に特別ゲスト赤羽さんが和太鼓で参加。ピアノ、ギター、和太鼓が調和し、見事な演奏だった。WISHの演奏に力強さが加えられた。
藤森さん「知床旅情」。それにリクエストに応えて「涙そうそう」。大月さん「パッヘルベルのカノン」。いつ聞いても感動的。ここで、中山さん再度登場。「買い物にでもいきまへんか」と「線路はつづくよどこまでも」。最後に松沢さんのピアノと赤羽さんの和太鼓で「浪花節だよ人生は」。赤羽さんは太鼓を叩きながら、時には手と口で音をだす面白い演奏。
特製餃子は好評だったようだ。できたら今後メニューにとりいれることができたらと思っている。西宮から餃子をつくりにきてくれた上西君に感謝。妹の美都子にも。そして、三浦が不在だったにもかかわらず、歌いにきて、盛り上げて下さった皆さん、ありがとうございました。
歌のタイトルや曲順など間違えていると思いますがご容赦下さい。またケイタイで撮った写真も不鮮明で申し訳ありません。(薫子記)
October 29, Friday 2004
オーリアッドは「ママさん」に任せ、ぼくは岡谷市のカノラ小ホールで開かれた信州しらかば法律事務所主催「第一回しらかばの集い」に参加。6時半から主催者の挨拶や表彰式。6時50分から一時間、ぼくが歌い、8時5分から一時間、石川文洋さんが、阪神淡路大震災やベトナム戦争の写真のスライドを上映しながら命の大切さについて講演。
ほのぼのとしたのは、『写真記録ベトナム戦争』にも入っていた白いアオザイを着た行商の少女の写真のあと、品のいい年輩の女性が5、6人の成人した息子や娘たちに囲まれている写真を見せてもらったとき。「命があったからこそ彼女は、このような幸せをつかむことができたのです」と石川さん。ベトナム戦争の取材で、九死に一生をえるような体験を何度もした人のことばだけに重みがある。
「ママさん」によれば、オーリアッドに関しては、箕輪の藤原和弘さんが、マーティンD45カスタムをもってやってきたとのこと。そして、歌声集会帰りで車にギターを積んでいた長島功さんもいて、セッションになったとのこと。「秋桜」「水鏡」「白い冬」「竹田の子守唄」「無縁坂」を演奏したが、特に鈴木一平という人の「水鏡」がよかったと、「ママさん」はいっていた。その歌い手の名前も歌も聞いたことがない。機会があったら聞いてみたいもの。
明日の飛び入りライブは盛況になりそう。飯田の中山昭さんが歌いにきてくれることになった。明日はぼくは和歌山県へいき不在のため、残念ながら彼の演奏が聞けない。また是非きてもらいたい。
October 28, Thursday 2004
前半セカンドウインド英語教室。
寒くなってきたせいか店は暇である。外を見ても人通りはもちろん、車も少ない。今朝届いたファイナル・ミックスダウンの『千の風』を聞きながら、今日の午後行なわれた高遠高校3年生対象のトークライブの感想文を読む。
上手に似顔絵が描いてあるのが2枚。「たいやき君に似ているっていわれたことありませんか」というのもある。あんな昔の歌を知っている高校生がいることに驚く。ぼく自身はそう思ったことはないが、昔からよく子門正人に似ているといわれてきた。
高校生にぼくの歌が通じるか心配したが、多くの生徒が真剣に聞いてくれた。印象に残った歌は「カムサハムニダ、イ・スヒョン」「千の風」、それに「それぞれの道」のようだ。
October 27, Wednesday 2004
土曜日以来のオーリアッド。開店直後、「坂元昭二コンサート」のオーガナイザー、五味さんがチケットをもってやってきた。さすが印刷屋さん、手際がいい。すでに彼の周りでも20名近くの人が来てくれそうとのこと。遠く仙台から来る人もいるらしい。コンサートまでまだ一ヶ月。かなりの盛況が予想される。
石川文洋さんの講演とぼくのコンサートの集いは、明後日の10月29日(金)。今晩再び石川さんの『写真記録ベトナム戦争』を見た。前回はページをめくって写真を見ただけだったが、今回はそこに書かれている文章も丁寧に読んだ。本当によくこれだけの写真を撮ったもの。
戦争によってもたらされたベトナム民衆の理不尽な苦しみに胸が痛む。北ベトナムと南ベトナムの死者を合計すれば300万人を超えている。そのうちの多くが女性や子供を含む民衆である。水牛を使って耕作するのどかな田園に容赦なく爆弾が落とされた。第二次大戦で使われた爆弾の量よりも多かったという。
アメリカはベトナムの間違いを今また繰り返している。わが国の首相は、多くの国々がその間違いを認め、軍隊を引き上げつつある現在も、ブッシュを支持し、イラク攻撃に間違いはなかったと表明している。アメリカの国民が、11月2日には、その間違いの張本人に投票しないことを願う。
遅くなってIさん来訪。入ってくるなり、最近読んだ『追憶の60年代カリフォルニア』が、小説のように面白かったという。村上春樹の文体に似ているという。もちろん村上春樹の足元にも及ばないが、この本が出版された直後、日本語の本なのに「英語の本を読んだ感じだった」という感想を送ってくれた人がいた。無生物主語を多用した翻訳調の日本語なのかもしれない。
いいちこのお湯割を飲みながら、しばらく話す。彼が一年ほど京都に住んでいたことを知った。北野天満宮の近くだったらしい。
October 25, Monday 2004
次回の飛び入りライブの10月30日(土)は、ぼくは和歌山県へ歌いにいくことになっていて不在だが、多くの人がきてくれそうである。
この日は、大阪にデザイン事務所をもち、いまから20年ちかく前、最初のオーリアッドができたとき、オーリアッドのロゴをデザインしてくれた西宮在住の上西保幸氏が、餃子を作りにきてくれることになっている。この日だけオーリアッドのメニューに餃子が加わります。実に美味しい餃子です。歌いに、聞きに、そして餃子を食べにお出かけ下さい。
その次の11月6日(土)の飛び入りライブは、東京から、「だらーず」がやってくる。そのメンバーの一人である田中誠一君からメールが届いた。
今回の言いだしっぺの荒木さんは、学生のころからバンドを
組んでステージに立つのが夢だったみたいで、みんな下手な
んだけど、何か荒木さんのその夢に乗せられて、練習から楽
しんでいます。
マキノくんも、大地真央主演のマリー・アントワネットの芝
居を演出しているというのに、6日は仮病を使ってでも参加
するぞ、なんて、久々に20年来の友たちと、出会った20代の
ころのように盛り上がっています。
その盛り上がりに刺激されたのか、舞台女優のドリちゃんこ
と、キムラ緑子(最近はウォータボーイズなど、映画、TVに
も出演している)も、「私もその飛び入りライブで一曲歌い
たい」と、参加することになりました。
また、石渡治氏の嫁さんの、漫画家・高梨くみちゃん、やは
り漫画家の桑沢篤夫氏、うちの嫁さんも行くと行っています。
どんな飛び入りライブになるか想像もつかないが、面白い夜になりそうだ。
October 23, Saturday 2004
飛び入りライブデー。開店直後の6時過ぎ、「オーリアッドのママ」さんのケイタイに兵庫県三木市に住む末の妹から地震は大丈夫かとの電話。オーリアッドの中ではまったく揺れを感じなかった。驚いた。大きな地震だったことがあとで判明。中信地区から聞きに来る予定だった人から「今夜は家にいます」というメールも入った。おそらく、中信、北信ではかなり揺れたと思われる。
トップバッターは、11月27日(土)の「坂元昭二コンサート」のオーガナイザー、五味健一さん。オリジナルの「真実(ほんとう)の愛」、それに、「秋桜」「チャンピオン」の2曲のカバー。サムピック、フィンガーピックをつけてギターをたくみに弾く。最初のオリジナルが一番よかった。あまり人前で歌うことがないとのことだが、もう少しリラックスして歌えればと思った。オーリアッド再開店以来、多くの歌い手を見てきたが、プロは別として、誰でも最初は緊張し、少々気負ってしまう。

次にぼくが久しぶりに「アルバカーキの空は今日も」、「フィールド・オブ・ドリームズ」。それに「千の風」を途中まで。不思議なこともあるものだ。いつも歌っている4拍子の「千の風」を3拍子で歌っていることに途中で気づく。歌いなおしたが、しっくりいかず断念。他人のことはいえない、ぼく自身緊張していたかも。

久しぶりに赤羽真理さんの「森の小道」を聞いた。ほかに傑作「千両梨の実」と「放浪者の子守唄」。「千両梨の実」は赤羽さんが北海道余市にある「恵泉塾」を訪問し、その主宰者である水谷恵信さんの話と本に感銘を受けて書いた歌。その水谷さんが明日、「辰野教会」でお話されるとのことだが、ぼくは箕輪町木下公民館で歌うことになっている。残念ながら聞きにいけない。前回水谷さんが来られたときも、東京へいく用事があってお聞きすることができなかった。次回こそ。

長島功さんと今日のトップバッターの五味さんは目と鼻の先に住んでいるらしい。夜中に五味さんの弾くギターが聞こえてくることがあるという。実は、今日、五味さんが歌いにきたのは、今日の午後、宮木公民館での文化祭で五味さんに会い、長島さんが誘ったとのこと。長島さんは「望郷」「無縁坂」「転宅」を歌う。彼が昨年オーリアッドで歌い始めたときのことを思うと、格段に上手くなった。確実に力を抜いて歌うことを覚えたようだ。

ここでしばらく休憩。この間に、「香月!」の3人と専属カメラマン上島さんが入ってきた。第二ラウンド、先ず、ぼくが「丁度よい」「新しい光迎えよう」。ぼくが歌っている間に、たくさんのお客さんが入ってくる。町民会館で行われた中村雅俊コンサートの帰りの人たちかなと思ったがそうだはなかった。次に、五味さんが「道化師のソネット」「主人公」。赤羽さんが、再び「千両梨の実」。そして長島さんが、オリジナル「最後の手紙」。
最後に香月!にお願いする。先ず、大月さんが「パッヘルベルのカノン」を含む2曲をピアノで。あとから入ってきたお客さんは、あまり音楽に興味がないようだったが、大月さんが弾き始めると話し声がやみ、耳を傾けている。そして最後に、大月さんと香さんが新曲を歌う。これは最近何回か大月さんのピアノ演奏のみで聞いた曲。素晴らしい曲に素晴らしい詩がついた。
風の行く先を
問いかけてみても
答えは見えず、独りの私
揺れる秋桜
閉店まぎわ、上島さんが「香月!」の写真を撮らせてほしいとのことで、3人がステージに立つ。左側の大月さんのニヒルにキメた顔と右側の破顔一笑のキュートな顔。Which
do you like better?

October 22, Friday 2004
開店直後、岡谷の増沢学さんが立ち寄ってくれた。彼のリクエストでダイヤー・ストレートを聞く。「サルタンズ・オブ・スイング」はやはり名曲だ。増沢さんは、10月29日(金)、カノラ小ホールでの石川文洋さんの講演とぼくの歌の集いにきてくれるとのことだった。
石川文洋さんといえば、台風23号のさなか松本から藤江さんがもってきてくれた『写真記録ベトナム戦争』を見た。本当によく撮ったものだ。ページをめくるたび、30年以上も前の戦争が鮮明に蘇ってくる。目を覆いたくなるような写真もいくつもある。貴重な記録である。
以前歌わせてもらったことのある、そば処「さくら」の竹渕さんが、「小室等さんが三浦さんによろしくといってました」といいながら入ってきた。聞くところによると、先日新しくできた新潟の「小さな空」というそば店で開かれた小室さんと谷川俊太郎さんのコンサート&トークショーに招かれていってきたとのこと。なんでも、そのそば店は「さくら」をモデルにして作られたとか。
そのとき撮った写真を見せてもらった。小室さんはますます風格が出てきた。もう何年も前、旧オーリアッドへ歌いにきてもらったことがある。また歌いにきてもらいたいものである。
後半珍しく少し忙しくなった。店は少し忙しいくらいがやはりいい。
October 21, Thursday 2004
前半、セカンドウインド英語教室。
教室からオーリアッドへ降りていき、しばらくして垣内彰さん来訪。今年3月ニュージーランドへいったとき撮った写真の展覧会を開くとのことで、そのポスターをもってきた。
垣内彰写真展
「Wangi Toto 僕の見たアオテアロア2004」
日時:2004年11月21日〜23日午前9:00〜午後5:00
会場:辰野町パークセンターふれあい
垣内さんを知ってからどのくらいになるだろうか。とにかく彼の好奇心、行動力には驚かされる。
新しいアルバムのマスタリングのすんだCD-Rを何度も聞いている。曲順をどうするか迷うところ。「千の風」「紙ヒコーキ」「父よ」と3曲つづけて考えていたが、あまりに個人的な歌が続くので、3曲目は「碌山」にして、「父よ」は後半にもっていったほうがいいと思い始めた。
「碌山」を中心にした『碌山』というミニアルバムを来年早々には作ろうと思っている。碌山美術館で売っていただくには、『千の風』というタイトルよりも『碌山』がいいし、カバーには碌山美術館か「女」像の写真を使いたい。それに値段も低く抑えたい。
今回「碌山」の録音はテイク・ワンでOKが出た。今も手元にあるCD-Rで「碌山」を聞いているが素晴らしい。関島岳郎さん、石崎信郎さんのおかげである。
October 20, Wednesday 2004
台風が日本列島を北上し、朝から雨。夕方から特に激しくなる。
開店後、11月27日(土)の坂元昭二さんのコンサートのオーガナイザーである五味健一さんがチラシをもって入ってくる。本業は印刷屋さんとか。チラシ作成はお手のもの。同時に彼は坂元さんの新しいアルバム『天から降ってくる光、窓から差し込む音』をもってきて、聞かせてくれた。
「ことば人間」のぼくは、ギターのインストラメンタルのアルバムを聞くことはあまりないが、まず、坂元さんのギターの音色の美しさに感銘を受ける。テクニックももちろん凄い。しかし、必要以上にそれを誇示しようとしないところがいい。
アルバムタイトル曲、それに「空へ〜すべての命は空へ」が特に印象的。後者はぼくの「千の風」にも通じるところがある。ここ数年の間に、彼のお弟子さん、そしてお姉さん、お父さんと、相次いで亡くされ、鎮魂のために書かれた曲のようである。
10時過ぎ、早めに店を閉めて家に帰ろうとしているところへ、松本の藤江さんが入ってくる。「今度、岡谷で石川文洋さんと一緒にやりますよね」といってカバンの中から石川さんの『写真記録ベトナム戦争』という分厚い写真集を取り出した。オーリアッドに飾ってある大工哲弘さんの写真は藤江さんが撮ったもの。最近、写真家になるために本格的な修行を始めたとか。若い人が、創造的な仕事を目指すのは嬉しい。道は険しいかもしれないが、がんばってほしい。
October 16, Saturday 2004
飛び入りライブデー。開店直後、岡谷の増沢学さんが入ってくる。歌いにきたのかと思ったら、11月13日(土)の神明小学校での講演の打ち合わせのため。急いで帰るというところを歌ってもらう。「ぼくたちだけ」「いつかきっと」「あの娘と遠くまで」。最初2曲はオリジナル。3曲目は岡林信康の歌だとか。年は若いのにしぶい歌を知っている。

トシ・コンサート以来顔を見せなかった宮田村の飯塚さんが入ってくる。オーリアッドでのトシ・コンサートのDVDと、そのコンサートの感想が投稿されたファンサイト掲示板をプリントアウトしてもってきてくれた。それをぱらぱらと見ていたら、「コンサートが終わってから変な町会議員の人に話しかけられてちょっと嫌でした」と書いている人がいた。県外から聞きにきた人だ。思わず吹き出した。誰だ、この町会議員は。
そのときまでに、誰も歌い手が入ってこない。そこで、ぼくが歌うことに。「もう一度だけ」「一通の手紙」「花語らず」「五年ぶりに会った友に捧げる歌」など、最近あまり歌わない歌を歌う。
ぼくが歌い始めたあと、藤森和弘さんが数人の女性と一緒に入ってくる。先日もきたが、いっぱいだったので中に入らず引き上げたとのこと。「さんだる」とYAMA-SHOWS
が歌った先週のことだろうか。「ジープ」「しゃぼん玉」「ネバー・チェインジ」、そして「幸せになろうよ」。ここでステージを下りようとするが、客席からのリクエストで「とんぼ」と「ろくなもんじゃねえ」。GUILD
の音がいい。

次に長島勲さん登場。いつもの「無縁坂」と、彼の初のオリジナル曲「最後の手紙」。客席からの「関白宣言」のリクエストに対して、「大月さんの前では<関白宣言>は歌えません」とステージを下りる。そこで大月高志さん登場。

大月さんは先ず「関白宣言」をギターの弾き語りで、次に、香月!の定番「しろうさぎなまいにち」をピアノの弾き語りで歌う。「いがらん」がギターでサポート。香さん以外の「しろうさぎなまいにち」を初めて聞いた。感想は・・・いわくいいがたし。

ここで、本日の飛び入りライブはとりあえず終了。歓談タイムに入る。しばらくして長島さんが、藤森さんの
GUILD を弾かせてほしいといい、音を出す。いい音だ。ぼくも弾かせてもらうことに。音がとても安定している。急遽思いついて、大月さんにピアノの伴奏をつけてもらって、「千の風」を。拍手があり、気をよくして「紙ヒコーキ」「ガビオタの海」も伴奏をお願いする。「千の風」だけにしておけばよかったか。最後に藤森さんに一曲お願いする。「大空と大地の中」。長島さんがカウンターにすわり、マーティンでサポート。

ゆったりとした、こんな飛び入りライブも時にはいい。
October 15, Friday 2004
ついこの間まで冷房を入れていたのに、昨日今日と、ときには暖房を入れないと寒くなった。これから本格的な秋になり、そして冬がくる。
今晩は長野ジャーナルのエッセイを書く時間がかなりあった。先日参加したモンゴメリー高校の
class of 64 の40周年のリユニオンについて書いている。書くことが多すぎてまとまりに欠けるきらいがある。起こったことを羅列するのではなく、的をしぼらなければと思いながら、これがなかなか難しい。
バックグランド・ミュージックはミックスダウンされた『千の風』。聞けば聞くほど、いいアルバムになるだろうと感じる。さらにこれにいくつかの手直しがなされ、マスタリングが行われる。自画自賛が過ぎるかもしれないが、ぼくの今までのアルバムの中で一番いいアルバムになることは確かだ。石崎信郎さんと関島岳郎さん、それに中尾幹二さんとHONZIさんに感謝。
明日は飛び入りライブデー。誰が歌いにきてくれるだろう。ぼくも歌うつもり。
October 14, Thursday 2004
前半、セカンドウインド英語教室。
月一回のジブラーンの会の勉強会。オーリアッドに入るとすでに読み合わせは終わっていて、みんなでおしゃべりを楽しんでいた。今晩は、「法律について」を読んだとのこと。
あなたが、あなたを縛っている枷をこわし、心の
中の牢獄から自由になったなら、いかなる人間の
法律があなたを縛ることができようか。
あなたがあなたを縛る衣服を、心の小径に脱ぎ捨
てても、誰があなたを裁きの場に連れていくこと
ができようか。
オーファリーズの人々よ、太鼓の音を出なくした
り、七弦の琴の糸をゆるめることはできても、誰が
ひばりに歌わないように命ずることができようか。
「自分では脱皮できず、脱皮した他の蛇を裸で恥知らずと呼ぶ年老いた蛇はどうだろう」というところもあって、なぜかライブドアのアダルトサイトを問題にする審査委員会の面々が思い出された。
October 13, Wednesday 2004
先日、小布施の出前ライブに参加した水野哲男さんが、そのとき撮った写真をCDに入れてもってきてくれた。彼の写真の腕はたいしたもの。彼のホームページの高山植物の写真は素晴らしい。
遅くなって香月!の大月さん来訪。12月11日(土)の香月!の有料ソロコンサートについての最終打ち合わせ。
数日前、五味さんという方から、坂元昭二さんというギタリストのコンサートのためにオーリアッドを借りたいというメールがあった。彼も打ち合わせに来訪。チケット代等詳細はまだ決まっていないが、11月27日(土)にコンサートをすることが決定。
坂元昭二さんのことをぼくは知らなかったが、さだまさしさんのギタリストとして長年活躍した人で、現在はソロのギタリストとして活動しているとのこと。
オーリアッドがさまざまな表現者に使ってもらえるのは嬉しいことである。
October 12, Tuesday 2004
10年前の新聞の切り抜きと、その記事を読んで購入したという『セカンド
・ウインド』をもって、昨日の「出前ライブ」にきてくれた山ノ内町のMさんからメールが届いた。「出前ライブ、すごくよかったです。OREADへいつか行きたいです」と書かれていた。コンサート終了後一緒に撮った写真が添付されていた。
しらかば法律事務所より、10月29日(金)に岡谷市カノラ小ホールで行われる「アイラブ憲法」の集いのチラシが送られてきた。

6時30分開演・主催者挨拶
6時45分三浦久コンサート「新しい光を求めて」(60分)
(15分間休憩)
8時00分石川文洋講演とスライド上映「命どぅ宝」(60分)
*「命(ぬち)どぅ宝」とは沖縄のことばで「命は宝」という意味。
9時00分主催者挨拶
入場無料、但し定員300名。先着順です。
October 11, Monday 2004
山岸豊さんのプロデュースで、「オーリアッド出前ライブ」が小布施駅構内の六斎舎という喫茶店のホールで行われた。オーリアッドの飛び入りライブには、最近ありがたいことに、多くの歌い手が歌いにきてくれるようになったので、ぼくの出番はあまりない。しかし今日は、前半と後半の最後に、2度も歌わせてもらった。

出演者は7名、オーリアッドのおなじみの出演者のほかに、御代田町からひとり、前橋からひとり参加した。

お客さんは多くはなかったが、熱心に聞いて下さった。柳沢京子さんもかけつけてくれた。10年前に新聞記事を読んで購入したという『セカンド・ウインド』のCDをもってきて下さった方もいた。今制作中の「千の風」の入ったCDがほしいという方も何人もいた。

その『千の風』のCDだが、ミキサーの石崎さんから電話があり、今日ミックスダウンしたCD-Rを送ったとのことなので、明日ぼくのところに届くはず。それを聞いてOKだと、プレスに入る。早ければ、11月半ば、遅くとも12月の初めまでには出来上がってくるはず。
機材のセッティングをすませたあと、少し小布施の町を見てまわる時間があった。どこも観光客でいっぱい。お昼を食べるのに苦労した。北斎館の前までいったが、「出前ライブ」の開演時間が迫っていて、中に入ることはできなかった。

October 9, Saturday 2004
山形県から「さんだる」を迎えての飛び入りライブ。恐れていた「10年に一度の」あるいは「1965年以来の」大型台風は進路を変え、夕方には夕焼けも。
午後7時ライブ開始。今晩のトップバッターは群馬は前橋の Lotusさん。オーリアッド3度目。彼がオーリアッドの雰囲気に慣れたのか、ぼくが彼の歌に慣れたのか、今まででもっとも説得力のあるパフォーマンス。「海のかけら」「シークレット・ジャーニー」、それにレナード・コーエンの「ハレルヤ」のカバー。続いて堀金村の山岸豊さん。I Shall Be Released の日本語バージョン。誰の訳だろう。聞いたことのない歌詞。さらに「雪降る夜、小布施で」「遠距離恋愛」。独特の山岸節。つづいて WISH 登場。「風のINITIALIZE」「林檎」「風と森の祭り歌」。思えば、昨年8月末、千葉の齊藤皓太さんを迎えての飛び入りライブの際、突如現れた芦部さんが最初に歌ったのが「林檎」だった。そのとき以来何度も聞いたが、大型台風の通過が予想された今晩、特に迫真性があるように思えた。名曲である。

8時過ぎ、いよいよ本日のメイン・イベント、「さんだる」登場。前半はギターの3人。後半ベースが加わる。彼らの新しいアルバムの曲を中心とした選曲。「推進力」「マフラー」「君のとなり」「ありのまま」「スタイル」。そして、拍手鳴り止まず、アンコールに「自転車に乗って」(高田渡さんの歌と同名ながら、彼らのオリジナル)。正直なところ、彼らの元気のいい演奏と時々奇声を発するMCに気をとられ、歌詞の内容が残らない。しかし彼らの意気込みと、歌に対する情熱は充分に伝わってきた。彼らは全員24歳だという。ぼくの24歳のころのことを思い出した。ぼくもとにかく聞いてもらいたくて、いろんなところへ歌いにでかけたもの。いや、誰も聞いてくれなくても、御所の庭で、鴨川の堤防で、歌ったものだ。彼らの歌にもあるように、可能性を感じさせる24歳の若者たち。
進め、僕らのこの推進力はとどまることを知らないで
進め、あの夜を乗り越えていける力を
僕らはきっと持っている、だから、前へ踏み出せ
(「推進力」より)
最初、YAMA-SHOWS のくのやんこと久納さんから連絡があったとき、彼もこれたら歌いにきたいとのことだった。数日前、メンバーの都合がついたので、YAMA-SHOWS
として出演するという連絡が入った。てっきり、相棒のもっちゃんとふたりでくると思っていたら、「はた坊」と「おかもっちゃん」も加わったフルメンバーだった。そのうちの一人の到着が遅れるとのことで、遅い時間の出演となった。もっちゃん独自の判断で、オーリアッド飛び入りライブの
round one と round two を連続して演奏。全8曲。「プレゼント」「にきび」「よっぱらい」「おいてきぼりの夏休み」。次から
round two。「だしおしみ」「「君の笑顔」「君への想い」「強気の男」。YAMA-SHOWS をオーリアッドで聞くのはこれが3回目。YAMA-SHOWS としてのサウンドが完成しつつあるように思えた。メリハリのある小気味よい演奏。飽きさせない。今晩は特にくのやんのリードギターが冴えていた。彼らの「推進力」も「とどまることを知らない」ようだ。

YAMA-SHOWS の後半の演奏で、round two は始まっていたのだが、ここでしばらく休憩。休憩後のトップバッターを大月高志さんにお願いする。前回につづき、ノー・タイトルの新曲をピアノで。つづいて、lotus
さんが ロイ・オービソンに捧げる「ミスター・オービソン」。彼のギターを借りてぼくが「千の風」、赤羽真理さんが「千両梨の実」。山岸さんが「次の場所へ行く幸せ」。最後に芦部清志さんが松沢美由紀さんのピアノの伴奏で「すこやかに」。いつ聞いてもこの曲はいい。そして芦部さんの歌の上手さには驚かされる。


芦部さんが「すこやかに」を歌いおわったとき10時45分。そして、最終的に閉店したのは12時少し過ぎ。まだまだ時差ぼけがなおらず、少なからず疲れたが、オーリアッドという空間で、年齢や好みの音楽を超えて、多くの人たちが出会い、そして、(おそらく)影響しあうのを目撃するのはいいものだ。
October 8, Friday 2004
帰国後2日目。まだまだ時差ぼけからは解放されていないようだ。背の高いストゥールに腰掛けて、カウンター越しにお客さんと話しているとき、2度、転げ落ちそうになった。やはり完全に元に戻るには一週間かかるかもしれない。
今晩は、The New Christy Minstrels の Today/Ramblin' と、Son House の Father
of Folk Blues、『千の風』のラフミックス、それに Joan Baez の Greatest Hits を聞く。『千の風』はいいアルバムになりそうだ。今日、関島さんからメールがあり、昨日、石崎さんのスタジオで半分トラックダウンをすませ、明日、もう半分をするとのこと。
明日の飛び入りライブには WISH も参加するとの連絡が入り、盛況が予想される。心配は台風。先日、サンタローザへ行くときも、飛行機の出発時間に台風は成田上空にあるという予報だった。実際にはその時間、台風はすでに三陸沖に去っていた。明日も予報が狂うことを願う。
サンタローザの 4th Street の「エピファニー」という楽器店でダルシマ
を買った。店員の若い女の子が丁寧に梱包してくれた。ダルシマの教則本がないかと聞くと、ダルシマのサイトにアクセスし、チューニングの仕方、弾き方の重要な部分をプリントアウトしてくれた。モンゴメリー高校
class of 64 の40周年のリユニオンにきたというと、彼女もモンゴメリー高校の卒業生で、先日10周年のリユニオンにいってきたところだという。名前を聞くと
"Oh, my name is Fawna, like a fawn" といった。
ディランの Ballad in Plain D の冒頭に、次のような歌詞がある。
I once loved a girl
Her skin it was bronze.
With the innocence of a lamb
She was gentle like a fawn.
かつて一人の少女を愛した
彼女の皮膚の色は褐色だった
子羊のように純真で
小鹿のように優しかった
Fawna というファーストネームには初めてお目にかかった。いい名前だ。
October 7, Thursday 2004
久々のオーリアッド。新しくカレーを仕込み、玄米を炊く。前半、セカンドウインド英語教室。教えているうちに眠くなる。時差ぼけの眠さというのは、急激にくる。しかも耐え難いほどに。但し、サンタローザで感じた時差ぼけほどに激しくはない。短期の滞在で日本に戻る場合は、いつもの生活のリズムに戻るわけだから楽なのだろうと思う。
今晩は、ディランの『ナッシュビル・スカイライン』、ウイリー・ディクソンの『アイ・アム・ザ・ブルーズ』を聞く。
閉店まぎわ、マンダラ2の中野さんに電話。サンタローザへ行く前に彼から年末ライブについての打診があった。去年でちょうど10回が終わったし、12月にはNZにいく必要もあるので迷っていたが、新しいCDも出ることだし、思い切ってやることにした。マンダラ2の都合とぼくの都合のいい日は12月8日(水)しかない。その日にお願いすることにした。
台風がきているようだ。「飛び入りライブ」の9日(土)には関東・中部に接近しそうだ。直撃しないことを望む。
October 6, Wednesday 2004
丁度、一週間のご無沙汰。5日の午後1時にサンフランシスコ国際空港を出発し、およそ10時間ほどで成田着。行くときに失った1日を取りもどし、今日6日の午後4時20分成田着。成田エクスプレス、特急あずさと乗り継いで、夜11時過ぎ帰宅。
この一週間は音楽ともインターネットとも無縁の生活。明日からオーリアッドを再開します。
October 1-5, 2004
2004年10月1日から5日まではモンゴメリー高校 Class of 64 の40周年リユニオンに参加するために日本を離れていた。オーリアッド日記には何も書かなかった。「ぼくが出会った歌、ぼくが出会った人」にそのリユニオンについて書いたので、それをここにペイストしておくことにする。http://www.nagano.net/journal/miura/041014.html
先月に引き続き、サンタローザのモンゴメリー高校64年度卒業生40周年リユニオンに参加したときの話。
スージーとデイルはわれわれが到着した翌日、10月1日午後4時ごろモーテルに着くと聞いていた。12時にドン・エンブレンが迎えにくることになっていたので、それまで近くを散歩しようと部屋を出た。駐車場を横切っているとき、遠くでぼくの名前を呼ぶ声がする。振り返ると、モーテルのオフィスの前で女の人が手を振っている。「スージーじゃないの?」と妻がいう。確かに。
デイルは中でチェックインの手続きをしていた。「早く着いたんだね」というと、「子供のころ住んでいたミルバレーへ寄らずにきたの」とスージーはいった。そして「明日午前中にミルバレーとミュアウッズへ行くつもり。デイルはまだミュアウッズへ行ったことがないの」と付け加えた。
しばらくしてデイルが出てきた。1999年夏、彼らが住むコロラドのリトルトンで会ったときと変わっていなかった。そのときよりも少しフレンドリーな感じだ。あのときはお互いにちょっと緊張した。「午後、スー・ピーターズが訪ねてくることになっているの。一緒にドライブに行こうか」とスージーがいう。「いいね。友人にお昼に招待されているので、帰ってきたら連絡するよ」といって別れた。
スー・ピーターズは、エイリーン・ウッズとともに、スージーの大親友で、この3人はいつも一緒だった。だからスーのことはよく覚えている。彼女は今サクラメントに住んでいて、リユニオンには出ないが、スージーに会いにくるのだという。
前回書いたように、昼食後ドン・エンブレンがモーテルまで送ってくれた。彼と別れたあと、部屋に戻り、スージーに電話をした。すでにスー・ピーターズも到着していた。彼らの部屋に行くと、昔の面影のあるスーがいた。少女がそのまま歳をとった感じ。少し垂れ下がった大きな目と鉤鼻。彼女はリンゴ・スターに似ていた。アメリカには中年になると肥る人が多いが、彼女は高校時代と変わらず痩身だった。
スー・ピーターズは今夜のうちにサンフランシスコに住んでいる娘のところに行くとのことで、それまでサンタローザの懐かしい場所をドライブしようということになった。
先ず、スージーが住んでいた家の前を通りモンゴメリー高校へ。スージーの家はペンキが塗り替えられていたが、昔とほとんど変わっていなかった。アメリカ人は家のメンテナンスに心を使う。買ったときよりも、売るときのほうが高くなることもよくあるようだ。
数時間前ドンと一緒にきたときはモンゴメリー高校の入り口を見ただけだったが、今度は中庭まで入った。この中庭は昼休みには生徒でごったがえしていた。モンゴメリーでの生活の中心にあった。ここから教室へも体育館へもカフェテリアにも行くことができた。しかし、品のよかった庭は、いくつかある正方形の花壇を囲むレンガが赤く塗られていて、スージーが「夜中にきて塗り替えようか」と冗談をいうほど醜悪に見えた。
次に、校舎の裏の競技場を見に行った。昔は一面に芝生が広がり、野球場、フットボール場、陸上競技場が並んでいたが、現在は一面工事中で芝生がはがされ土がむき出しになっていた。シーズンが始まったフットボール場はかつて陸上競技場があったところに仮設されていた。昔を思い出させるものは何もなかった。
そのあと、スー・ピーターズが住んでいた家を見にいった。最初なかなか見つからなかったが、なんどか通りを行ったりきたりしてようやく探し当てた。町から少し外れたところにあって、あまり人家がないところである。家のある場所は変わっていなかったが、周りの景色が変わっていたのだ。何しろ40年の歳月が流れている。
そのあとしばらく、近くのハウァース公園にいって休んだ。老夫婦がベンチにすわって湖を見ていた。いい景色だった。彼らの周りだけ時間がゆったりと流れているようだった。
その後モーテルに戻り、近くのレストランへ食事にでかけた。金曜日のせいか、最初に行ったステーキハウスは超満員。仕方なく少し歩いて、木造の洒落たファミリーレストランへ。ここも混んでいた。どこへ行っても混んでいるだろうからと、ここで待つことにした。ぼくは列に並んで待つことが苦手だが、アメリカ人は並んで待つことをあまり苦にしないようである。
待つこと15分、ようやくテーブルに案内された。アメリカのレストランで食事をするときは、どうも注文しすぎてしまう。一皿一皿の量が多い。ぼくはフィッシュ&チップスのほかにビールのつまみ、スープ、サラダを注文したのだが、食べきれる量ではなかった。フィッシュ&チップスにも、つまみにもフライドポテトが山のようについている。つまみだけでお腹いっぱいになりそうだ。肥満の人が多いのもうなずける。それに味ももうひとつ。ニュージーランドで食べたフィッシュ&チップスのほうがはるかに美味しかった。
1999年リトルトンでスージーとデイルに会ったとき、デイルが共和党員だということを知った。だから食事をしながら、目前に迫っていた大統領選挙の話はしないでおこうと思ったが、彼のほうから切り出した。
彼をのぞいて、スージーもスーも、妻もぼくもみなケリーを応援していた。60年代後半、海軍に所属し、3年間ベトナムにいたというデイルは「ケリーは売国奴だ」という。「ケリーがベトナムでの兵役を終えたあと、予備兵の身分のまま、北ベトナムの指導者とパリで会ったことが許せない」という。それは「ジェーン・フォンダが戦争中にハノイにいったのと同じような行為だ」という。
ぼくは戦時中であっても政府の方針に自由に反対を唱えることのできるアメリカは健全だし、ケリーが意見や立場を変えると非難されるが、自分が間違っているとわかって意見を変えることのどこがいけないのか、というようなことをいった。しかし、その議論では彼を説得することはできなかった。政党支持というのは信仰に近い。どんなに説得力ある議論でも、相手の信念を覆すことは難しいだろう。
話題は政治からやがて昔話に。ビートルズ、ボブ・ディラン、それに共通の友人たちについて。主義や信条を超えて、人と人をつなぐ重要なもののひとつは疑いもなく共通の体験である。60年代という共通の体験がぼくたちを結びつけていた。その体験は企画し意図されたものではなく、自然発生的なものであった。幼年時代や学生時代の共通体験が貴重なのは、そこに「利害損得」を超えた自発的なつながりがあるからだろう。
翌日、スージーとデイルと一緒にモーテルの食堂で朝食をとった。ミルバレーとミュアウッズへ一緒にいかないかと誘われたが、ぼくは何度もミュアウッズにいったことがあるし、妻も10年前にきたとき行っているので、感謝して断った。本当のところはサンタローザの町を見て歩きたかったのである。
彼らが出発したあと、タクシーを呼んでサンタローザのダウンタウンへいくことにした。妻もぼくもサンタローザへ行ったら「チャールズ・シュルツ博物館」へ行きたいと思っていたのである。今回この博物館を訪問したときのことについて書く余裕はないが、タクシーに乗ったときのエピソードだけは書いておこう。
博物館の前でタクシーがとまったとき、メーターには8ドル50セントと表示されていた。財布を取り出してお金を払おうとすると、運転手が振り向いて「6ドル80セント」という。「メーターは8ドル50セントとなっているけれど?」と不思議そうな顔をすると、彼はこともなげに「シニア・シティズン(高齢者)は20パーセント引き (20 percent discount for senior citizens.)」という。あとで高齢者割引は62歳からと知ったが、どうして彼は身分証明書の提示も求めず割り引いてくれたのか。本当に62歳以上に見えたのだろうか。得したとも思ったが、ちょっと複雑な気分だった。
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2004年10月2日(土)、午後7時、モンゴメリー高校1964年度卒業生の40周年のリユニオン(同窓会)が、サンタローザのクリーブランド・アベニューにある「ロス・ロブルズ・ロッジ」というレストランで開かれた。
午後7時少し前、デイルの運転する車で会場に着いた。受付には、幹事の同窓生たちがすわっている。ぼくを見ると、「ハーイ、ヒサシ、よくきてくれた」「また会えてうれしいよ」「元気そうだね」などと口々に話しかけてきた。イヤーブックの写真が複製された名札と、番号が書かれた富くじ(ラッフル)を受け取ったあと、妻を紹介した。彼女も名札とラッフルを受け取った。
レストランの中に入ると、すでに到着した人たちが三々五々かたまって話している。白髪の人もかなり目立つ。見るからにシニア・シティズンの集まりだ。自分では若いつもりでも、明らかにぼくも彼らの一員に違いない。間違っているのはタクシーの運転手の判断ではなく、ぼくの思い込みのほうだろう。
しかし中には若く見える者もいる。現在定期的にメールのやりとりのあるのはスージーのほかにアン・リーバマンがいる。彼女は20代は無理としても30代には見える。皺ひとつない顔、派手な化粧。高そうな服装にアクセサリー。お金をかけていることが一目で分かる。彼女はわれわれのあとすぐに会場に到着した。
10年前に会ったとき彼女は、詳しいことは忘れたが、何かのコンサルタント会社を経営していて、ベイエアリアのテレビにもよく出演しているとのことだった。彼女の2度目の夫に会うのは今回が初めて。やや小柄ではあるが、きびきびした健康そうな男である。おそらく、今は退職しているが、いわゆる「勝ち組」に属していたビジネスマンだったのだろう。彼らは、このリユニオンに参加する前、2週間ほどフランスのリゾート地で過ごしてきたとのことだった。「10年前より若く見えるよ。若さの秘訣はなに?」というと、「仕事をやめたからよ」といった。
ケン・クロウネンが近づいてきた。横には大柄な女性がいる。奥さんかと思ったら、友人だという。ケンには10年前の同窓会でも会った。昔から人懐こい性格で、彼とはよく話した。「1963年、モンゴメリー高校には、2人の交換留学生がいた。おまえとアイスランドのアン・クリストファスドーターだ。アンには64年のニューヨークの万博で偶然出会って驚いたよ」と彼はいった。当時サンタローザにはふたつの高校しかなかったが、もうひとつの高校だったサンタローザ高校にはノルウェーのクララがいた。彼女たちのことはすっかり忘れていた。ケンのおかげでアンとクララのことを思い出した。どうしているだろうか。
ケンと話していると一人の男が話しかけてきた。名札にはピーター・ウイリアムズと書かれている。オハイオからきたという。「ヒサシ、おまえのことはよく覚えているよ」と彼はいった。残念ながらぼくは彼のことが思い出せない。当時モンゴメリー高校は、3年生だけでも450人近くいて、キャフェテリアが狭すぎて、ランチの時間は2度に分けられていたほど。だからこの日集まった同窓生でも知らない人のほうが圧倒的に多かった。
ピーターは、シンシナチのプロクター&ギャンブル(P&G)社に長年努めたが、数年前に退職したとのこと。フォークシンガーという肩書きの名刺を彼に渡しながら、ぼくも長い間教師として働いたが、今は売れないフォークシンガーだといった。どんな歌を歌っているのかと聞くので、「ボブ・ディランに影響を受けて歌い始めた」といった。それを聞いて彼は、「今週のニューズウイーク誌の表紙はディランだよ」といった。彼もディラン・ファンだったのだ。その後しばしディラン談義。
7時からリユニオンが始まるはずなのに、みんな立って話しているばかり。日本だったら、まず開会の挨拶があり、そのあと、先生の挨拶があり、誰かが乾杯の音頭をとり、会が始まる。8時近くになり会場がいっぱいになってきてもまだみんなおしゃべりに夢中。
疲れたので近くのテーブルにすわった。ぼくがすわるのを見て妻もすわった。スージーもデイルもそれにならった。しばらくするとみんな思い思いのテーブルにすわりはじめ、食事が運ばれてきた。それまで一切幹事の挨拶も何もなかった。食事が運ばれてきても、乾杯の音頭もない。
妻が、「先生は一人も招待されていないみたいね」といった。10年前にきたときも先生はいなかった。アメリカでは同窓会に先生を招待しないのかもしれない。モンゴメリー高校の同窓会だけで断定することはできないが。
ディナーは日本から申込書を送るときに3種類の中から選んでおいた。ぼくのテーブルは、ぼくを除く5人、全員チッキン・テリヤキだった。ぼくだけベジタリアンのために用意されたパスタ。ぼくはベジタリアンではないがパスタが好きだ。美味しかった。
アルコールを飲みたい者は隣のバーへいってお金を払って注文しなければならない。日本式のビールや酒を注ぎあう宴会に慣れると少々違和感がある。そして気がついてみると、煙草を吸っている者が一人もいない。おそらくレストラン内での喫煙は法律で禁止されているのだろう。煙草と酒のかわりに、彼らはよくしゃべる。パーティーはしゃべるためにあるかのよう。
食事が終わると、ラッフル(くじ引き)があった。このときも挨拶があったわけではない。突然2,3人が前に出て、くじ引きが始まった。驚いたことに、最初に読まれた番号は、妻がもっていた番号と一致した。景品は赤いモンゴメリー高校のTシャツ。しかしサイズはLLで彼女にはもちろん、ぼくにも大きすぎる。しばらくラッフルが続いて、次々とTシャツや野球帽が渡される。そのうちに、ラッフルは終わり、「質問と答え」のコーナーになった。出された質問に答え、一番に該当する者が景品をもらえるのだ。
最初の質問は、「誰が一番遠くからやってきたか」。その質問がされるやいなやみんながぼくのほうを見る。異議を挟む者は誰もいず、カリフォルニア産のワインを一本いただいた。次の質問は「それでは、アメリカ国内からは誰が一番遠くからやってきたか」だった。オレゴン、オハイオ、ミシガンと声が上がる。最後にアラスカという声があり一件落着。「孫が一番多い人は」に対しては8人、「離婚回数の一番多い人は」に対しては4回、と答えた人がそれぞれワインを獲得した。
最後の景品はソニーのDVDプレーヤーだった。なんと驚くことにDVDプレーヤーを手に入れたのはスージーだった。6人がすわっているテーブルで3人が景品を手に入れたのである。
ラッフルが終わると、ダンスが始まった。プロのDJと思われる人がMCをしながら次から次へと60年代のヒット曲をかける。この歳でツイストは無理だと思ったが、けっこうみんな踊っている。アン・リーバマンと夫はジルバを軽快に踊っている。二人とも痩せていて、身のこなしが軽い。中には踊るのは無理と思われるほどに肥ったカップルもいたが、にこやかに踊っている。
スージーとデイルも立ち上がり踊り始めた。最近ダンスをしたことのないぼくはちょっととためらったが、スローな曲がかかったとき妻を誘った。ちょっと照れくさかったが何とか最後まで踊った。しかし次のテンポの速い曲がかかったときは体がついていかなかった。途中であきらめて席に戻った。モンゴメリー高校に通っていたときはよくキャフェテリアでダンスパーティーがあった。ICUに通っていたときも食堂でダンスパーティーがあった。そのころは、心ときめかせて会場に足を運んだものだったが。
ダンスはしばらくしたら終わるだろうと思っていたが延々と続いている。しかもわれわれのテーブルはスピーカーのすぐ近く。うるさいこと極まりない。時計を見るとすでに10時近い。あたりを見渡すと帰り支度をしている人たちもいる。スージーとデイルもそろそろ帰りたそうな様子。
立ち上がって出口に向かう。入り口のホールでかなりの人たちがおそらく「騒音」を避けて話をしていた。アン・リーバマンもケン・クロウネンもそこにいた。しばらくまたそこで立ち話。アンの義理の息子は今東京にいるという。日本に来ることがあったら辰野まで会いにくるように伝えておいた。
スージーが「リユニオン自体はつまらなかったけれど、何人かの昔の友だちに会えたし、あなたの奥さんにも会えたし、きてよかった」といったが、確かにぼくもリユニオンそのものにはちょっと失望した。
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10年前の30周年リユニオンにきたとき、何人かの人たちにジョン・ヒューイットの消息を尋ねたが誰も知らなかった。彼らが知っていたことは、ぼくがすでに知っていたこと―大学をやめコンサートのライトショーの開発に一役買い、彼自身ライトショーの演出を手がけていたが、そのうちにどこにいるかわからなくなってしまったということ―だった。ジョンと一緒にキングストン・トリオ風のバンドでバンジョーを弾いていたトム・ピクストンもジョンがどこでどうしているか知らなかった。
ジョンは、モンゴメリー高校ではトップの成績で、ベイ・エリアの79の高校の生徒が参加した「ベイ・エリア・エンジニアリング・ウイーク」で最高の成績を収め、どの大学へ行ってももらえるという奨学金を獲得した。彼はカリフォルニア大学バークレーを選んだ。
64年に日本に戻ったあと、何度か彼から手紙をもらった記憶がある。しかし、その後音信不通になってしまった。しかし彼のことは折りにつけて思い出した。当時のモンゴメリー高校の生徒も教師も誰もがジョンに一目おいていた。それほどに優秀だった。それだけでなく、フォークミュージシャンとしても活躍した。社交性に欠けたガリ勉タイプではなかった。
ジョンがバークレーに入学したのは1964年9月のこと。時代は60年代後半のカウンター・カルチャーの黎明期。その後数年間、多くの者たちがベトナム戦争に反対し、ドロップアウトし、「創造的な」生き方を探求した。おそらくジョンもそのひとりだったにちがいない。
今回のリユニオンに参加して、ジョンが亡くなったことを知った。自殺だったらしいという者もいた。スージーはインターネットのサイトで彼の死を知ったといい、プリントアウトした一枚の紙をわたしてくれた。そこには彼の死因については何も書かれていなかった。北カリフォルニア・アマチュア天文学会の会長という人が副会長だったジョンの死に哀悼の意を表していた。
この追悼文が書かれた日付は2000年の1月13日で、冒頭の文章は、「私の友人ジョン・ヒューイットは20世紀が終わろうとしているときに亡くなった」と書かれている。彼が死んだのは2000年1月の初めだったに違いない。
何年か前、インターネットの検索エンジンに彼の名前を入れて検索したことがある。100万以上ヒットしてしまい役に立たなかった。同名のアイルランドの詩人に関するものが多かった。スージーにもらった記事からジョンが、カリフォルニア大学バークレーの「ローレンス・ホール・オブ・サイエンス」と関係のあることが分かった。サンタローザから戻ってから、絞り込んで検索してみた。
その結果、正確なジョンの肩書きや地位はわからなかったが、彼が「ローレンス・ホール・オブ・サイエンス」と大きなかかわりをもち、多くの人たちに尊敬されていたことが分かった。「バークリアン・オンライン」というウエブサイトには彼の「死亡広告」が掲載されていた。
ローレンス・ホール・オブ・サイエンス(LHS)の同僚および彼をよく知る者たちは、優れた教師でありアマチュア天文学者であったジョン・ヒューイット氏の死を悼んでいる。ヒューイット氏は天文学の美と喜びをたくさんの人たちに、子供にも大人にも、プラネタリウム、授業、キャンプ、教師のためのワークショップなどを通して、伝えてきた。また、10年以上にわたって、土曜の夜、LHSの庭で星を眺める会を主催してきた。1月22日土曜日、ヒューイット氏を追悼する会がLHSで開かれた。同僚たち、そして彼の教えに影響を受けた多くの者たちが参列した。
さらに、カリフォルニア大学理事会が彼の死後「ジョン・ヒューイット記念基金」の設立を承認したという記事も、その翌年、アマチュアの天文学者が「ジョン・ヒューイット賞」を受賞したという記事も出てきた。
ジョンの死が自殺だったとする記事はなかった。しかし、他の死因に言及している記事もなかった。彼は、2001年9月11日、ニューヨークのふたつの塔に旅客機が突き刺さり、噴煙とともに崩れ落ちるシーンを見ることはなかった。そしてその後アメリカがたどった報復と戦争の道を見ることがなかった。ふと、ジョンは来るべき21世紀の世界に絶望していたのではないかという思いが脳裏をよぎった。真相はわからない。
ジョンとテッド・ストラブとトム・ピクストンがよく歌っていた「グリーンバック・ダラー」という歌がある。キングストン・トリオの歌である。ジョンのことを考えていたら、この歌を思い出した。
俺のことをろくでなしという奴もいれば
ひどい男だという奴もいる
いいかい俺は生まれながらの旅人
すべきだと思うことをしているだけ
そう、すべきだと思うことをしているだけ
カネなんか気にしちゃいない
入ったらすぐ使っちゃう
いい歌とギター、俺に理解できるのはそれだけ
そう、俺に理解できるのはそれだけ
まだちっちゃかったとき、お袋がいった
「ねえ坊や、行きたいところへ行って
いろんな経験をするのよ
そして歌うべきことを歌うのよ
そう、歌うべきことを歌うのよ」
俺はあちこち旅しながら
この歳まで生きてきた
そして学んだことはブランディと歌
それだけが俺の友だちということ
そう、それだけが俺の友だちということ
カネなんか気にしちゃいない
入ったらすぐ使っちゃう
いい歌とギター、俺にわかるのはそれだけ
そう、俺にわかるのはそれだけ
あるサイトの記事によれば、ジョン・ヒューイットは、亡くなるまで子供たちに星を見ることを勧め、望遠鏡を手作りし、土曜の夜はバークレーのローレンス・ホール・オブ・サイエンスの庭に集まり、みんなで星を眺めていたという。
「お金は大事だよー」というコマーシャルソングが耳元に聞こえてくる。確かにお金は大事だ。でも大事なのはお金だけではない。アメリカでも日本でもあまりにも経済至上主義、お金崇拝主義が幅をきかせている。老後の安定も大事だ。でも、そのことを心配するあまり、日々の生活がおろそかにされていないだろうか。
ジョン・ヒューイットの心の中の思いを推し量ることはできないが、彼は星を見ることで精神の均衡を保っていたのではないだろうか。60年代に抱いた理想に忠実であろうとしたのではないだろうか。ぼくにフォークソングの魅力を教えてくれたジョン・ヒューイットの冥福を祈る。
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