第1回 2003年7月21日


   「私って何だろう」     講師:小沢幸彦さん


1.今日は「私って何だろう」というテーマで話してみようと思う。

こんにちは。三浦さんはうそをいうような人ではないと思っていたのですが、今日は明らかにうそをつかれて、・・実はね、先日このお話があって、打ち合わせをしたときは、3、4人で座談をやればいいと思っていたんですよ。ま、そしたら「たつの新聞」に2度もこの案内が出てね、こんなに大勢の方々がお集まりになって、ちょっとこまったなと思っているところです。そうはいってもね、せっかくこんな機会を作っていただいたので、何かまとまったことをと思っていたんですが、ここんとこいろいろあったりして、今日のお昼になっても構想がまとまらないんですね。それでまあいいわと開き直って出てきたところです。

前回打ち合わせにきたとき、三浦さんがインターネットに連載したエッセイをまとめたというこの本をいただきました。60年代のカリフォルニアでの生活について書かれたもので、女房もぼくも読み始めたらおもしろくて止められなくなってしまいました。メモしてあったとしても、もう30年以上も前のことなのに、その記憶が実に生々しいんですね。さすがだなと思いました。この中で私が自分と比べて感動したのは、キリスト教大学に入ったときのことかな、あるいはアメリカの大学だったかね、とにかく年間にものすごい数の本を読まなければならなかったと書かれていたところです。

三浦さんとのつきあいは長いんですが、三浦さんの根源は若い頃の勉強なんだろなと思いました。それと比べてね、私はいつもちゃらんぽらんでした。しかし一度だけ本気で勉強したことがあります。それは戦争が終わって小学校の代用教員をしていて、これではどうにもならんということでやめてね、松本の旧制の高等学校を受けたんですよ。そりゃもう受かりっこない、見事に落ちました。で、伊北農商の出身ですから、学校へ行って、もう一度受けたいというと、先生たちがみんな、「よせよせ、そんなん受かりっこないから」と相手にしてくれないんですよ。それで、こんちくしょうと思いましてね、このときは勉強しました。さすがに。一日5時間ぐらいしか寝ないで、飯を食べながら暗記ものをしたり、10数時間勉強しました。勉強というのは、勉強したあとの感じがとても気持ちがいいですね。まあ、どうにかこうにか、受かったわけですが、もうそれっきり、あまり勉強しなかった。だから、ちゃらんぽらん人生で、教員になっても、教室で教えることはちっとばかやってきましたが、自分の勉強はあまりしてきませんでした。

こんなちゃらんぽらん人生ではありましたが、今日は、「私って何だろう」というようなテーマでお話してみようかと思っています。


2.動物の世界では、匂いをかいで、なめて、親と子の絆ができる。

まあ最近ですね、日本社会、まったくどうかしちゃった。殺人は横行する、窃盗は多い。しかも子供の殺人。それから女の子の遊びですか、出会い系っていうんですか。そうかと思うと、国会議員の先生たちも、いつの間にか日本国憲法を忘れちゃっている。自衛隊を軍隊にと・・・、そうはいってはいないけれど、でも明らかにそうですよね。

戦後日本の、特にバブル経済以降の日本の教育の問題についてですが、家庭教育云々、学校教育云々、盛んにいろいろいわれたわけです。そういう中で、子育ての問題が、まあみんな考えているんだけれど、結果的には、まあ現象面では、少しも改善されず、いよいよ昨今のような状況になってきているわけです。

そこで、子育てについていろいろなことがいわれるわけですが、子育てについて、動物はいったいどんな風に子育てをやっているんだろうか、動物の生態というのはいわゆる本能的なものですから、これはごまかしがない。そうすると、動物の親が子供をどう育てるかということが、子育ての原点にならんだろうかなと考えてみました。

動物の生き方というのは、まず食うこと、それから子孫を残すこと、そしてやがて死ぬことですよね。動物学者が書いたさまざまな本を読みましたが、ある本の中に、動物の親が子をどう認知するか、子供にどういう姿勢で向かっているのか、また子供が親にどういう姿勢で向かっているのか、ということが書かれていました。

動物にはいろんな種類がありますが、例えば犬が子供を認知するのは、匂いと、そして鳴き声だそうです。犬はわりあい目が弱いそうなんですね。犬は一度に何匹も子供を生みますが、まず最初の一匹が生まれてくると、親は、羊膜を食べて、濡れている子供をなめて乾かしてやります。初めの子がきれいになるまで次の子を生まない。次から次へと生まれてくる子供にも同じようにしてやります。最初に出てくるのは、お腹の中で一番大きくて強いもののようです。5匹いるんなら、最後の5匹目は一番小さくて弱いものが出てくる。弱いものは、いつも端に寄せられてしまう。そして結局途中で死んでしまうことが多いようです。強いものが生き残るのが動物の世界のようです。弱いものは自然にまかせておく。人間の社会とはそこが違うところですね。端に寄せられてばかりいる子に乳を飲ませようと母親のところへ近づけても、結局ははじき出されてしまうようです。強いものが生き残っていくというのが自然の摂理なのかもしれません。

草食動物も、母親が生まれてきた子の羊膜を食べて、なめて乾かしてやるらしいです。なめて乾かしやっているうちに、親は子供の匂いをしっかりかぐ。子供も親の匂いをかぐ。匂いによって、親子の認識が成り立っているようですね。特に草食動物の場合は、お産の最中に襲われる確率が高い。お産のときが一番危険な状態です。襲うほうもお産の最中を狙うことが多い。

お産の最中に襲われると、親は途中で産み落として、そのまま逃げてしまうらしい。当然、生まれてきた子は食べられてしまうわけですが、動物の親子の認識が成立するためには、羊膜を食べ、なめて乾かしてやるということがいかに大切であるかということが、次のエピソードでわかります。ある動物学者が、アフリカの草原をジープに乗っていると、藪の影でお産をしているシマウマに遭遇したんですね。そのシマウマはジープに驚いて、子供を産み落として逃げてしまったんですね。それでなんとかして、親のところへ産み落とされた子供を連れていたのですが、親は、その子を自分の子だと認識できなかったらしいです。匂いをかいで、なめて、そこで初めて親と子の絆ができるということのようです。

この絆というのはとても強いもののようですね。チンパンジーなんかでも、子供がなんかで死んでしまったようなときは、死んだ子供をいつまでも下げて歩いている。そしてチンパンジーも、子供たちは集団で遊ぶんですが、一緒に遊んでやってくれといわんばかりに、そこへ死んだ子供をもっていくようですね。しかし他の子供たちは興味がないから、親はまたその子を下げては生活しているんですね。

うさぎは、匂いよる親子の認識が強いらしいです。兎の子が生まれた直後に人間が抱くと、人間の匂いがついて、親は子に乳をやらなくなってしまうそうです。場合によってはその子をかみ殺してしまうこともあるらしい。だからやっぱり、匂いということを通して親子の認識が成立し、子供が自立していくときがくるまでとことん面倒をみるというのが動物の世界なんですね。

聴覚によって親子の認識をする動物もあります。例えば、オットセイがそうです。北氷洋の小さな島に、何万頭というオットセイ集まるわけでしょう。子供だってものすごい数生まれるわけです。オットセイの乳は脂肪分がうんと多いらしいです。30%とか。それを腹いっぱい子供に飲ませると、消化するのに1週間ぐらいかかる。その間に親のオットセイは海に出て漁をし、腹いっぱいになって戻ってくる。戻ってくると、子供がいっぱいいるわけですね。どうやって自分の子を見分けるか。これは海鳥でもそうなんですが、鳴き声なんですね。

人間の社会では、ようやく声紋によって個人を認識することができるようになってきましたが、オットセイや鳥も本能的に声紋を聞き分けているんでしょうね。

これはちょっと曖昧なところもあるんですが、ある学者の研究によれば、ツバメの場合は、聴覚と同時に視覚も餌をやる順番に影響があるらしいんですね。ツバメはオスとメスがかわるがわる餌をもってくるんですが、まず大きい声で鳴く子にやるんだそうです。大きな声で鳴くためには口を大きく開けます。すると口の中の赤い色が見えます。他の子はどうなるかというと、うまくできているらしいですね。腹がいっぱいになると声が小さくなるらしい。それで最初鳴き声が小さかった子にも公平に餌が行き渡るらしいんです。

カッコウやホトトギスのように自分では子育てをしない鳥がいますね。いわゆる托卵です。あれはやっぱり怠け者の母鳥かねえ。自分で育てればいいと思うんですがね。それもおそらく何かの理由があるんでしょう。子育てする側の鳥は、卵の色や、大きく口を開けた時の、ヒナの口の色を見て、自分の子だと思って、餌をやってしまうらしいですね。

よく皇居の堀にいる子連れのカモなんかが話題にのぼりますが、カモなんかは、生まれて最初に見たものを親だと思う習性があるようです。ある先生が人工孵化で生まれたカモを育てたのですが、そのカモは先生を母親だと思い込んで、どこへ行くにもついていくんですね。寝るときなんかもドアを閉めるとギャーギャー鳴いてどうしよもない。ドアを開けてやると寝床の中に入って安心して眠ったんですね。

最初にスキンシップを与えたということが重要なんでしょうかね。子供にとって親というものは何かというと、自分を保護してくれる者なんですね。暖かく抱いてくれる、餌をくれる、頼ることができる、そういう者が親なんですね。そうだとすれば、それは本当の親以外でも代用ができるはずですよね。しかし、生まれた直後に抱いたりスキンシップしたりすることがないと、本当の親子関係というものは出来上がっていかないのではないかと思います。だから、うんと大雑把にいえば、最初に、スキンシップを与えてくれた者、肌のぬくもりを与えてくれた者が親だと、いうふうにいわれているようです。

   
3.一番大事なものは愛情である。

人間の生き方の問題なんですが、動物と人間と比べてみると、明らかに人間のほうが優っているということは間違いない。しかし、人間はすこし自分中心にものを考えるようになってきている。例えば、動物にはそれぞれ発情期がありますが、弱い動物ほど発情期は短いようです。そして短い発情期にいっせいに出産をする。野生の動物の場合は、外敵に襲われるわけですが、少しくらい襲われても、子孫がちゃんと残るように短い期間にいっせいに生むわけです。自然の摂理ですね。

ところが人間には発情期はないんですね。もともとはあったはずでしょう。地球の40数億年の歴史の中で、まあ2億年かそこら前に海で生命が誕生し、その生命がだんだん発達して、最後に人類が発生してきた。その過程で、最初はやはり、発情期があったといわれているんですが、なぜ人間の発情期がなくなったんでしょうかね。発情期の一番の根源は種族の保存、子供を残すことですね。人間に発情期がなくなったということは、子供を残すことは大事だけれど、それ以上に、夫婦間の結びつきのようなものを大事にする。お互いの愛を大事にする。その愛情で人間社会が安定していくんだ、というふうにいつのまにか考えられたんでしょう。まあ、これは後から学者がああだこうだと考え出したことかもしれませんが、当っているかもしれないとも思います。

そういう中で発情期がだんだん短くなって、短くなってというか、発情期と発情期の間がなくなって、づーと続いてから、いつでもセックスができるようになったわけです。動物の中でいつでもセックスができるのは象もそうだということになっているんだけれど、どうなんでしょうかね。しかし、象はお腹の中に子供が2年以上いるそうです。その間は交尾はしないようです。人間はもう絶えずいつでもセックスができます。お腹に子供があってもセックスができる。だからやはりセックスの果たす役割というのが、人間の場合は大分変わってきたんですね。さあそこでですね、一番大事なものは愛情ということかなと思うわけです。


4.きれいな人を見ると、口説いてみたいという欲望は皆もっている。

さて、これから愛情というものについてお話する前に、ちょっと挟みたい話があります。「私の生き方」なんていうと大げさですが、川島小学校で代用教員していた頃、職員で論語の読み合わせ会をしたことがありました。論語には有名な言葉はいっぱいあるわけですけれども、そこで特に学んだことは、「われ十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず」というというところの解釈です。

私は、いやー、そんなことは人間できないなと思っていたわけですが、その時の校長がね、宮下忠道さん、長谷村の一ノ瀬の人なんですがね。上伊那の校長会長などをされた大校長でしたが、その忠道先生の解釈はね、こういう解釈でした。「われ十有五にして学に志す」というのはね、15になったら、学に志すそういう気持になりたいもんだと。ただ受験のために勉強しようなんていうんじゃなくって、ホントに自分で勉強したいという気持ちになりたいもんだと。「三十にして立つ」というのは、30になったら一人前になりたいもんだと、他人にもそう認められたいと。「四十にして惑わず」、40になったら惑わなんで生きたいもんだと。特に40というのは、自分が40年生きて、まあ男の人も女の人も、社会的にも、ちょっと金持ちになりたいとか、出世したいとか、そういう欲望がいっぱいありますよね。だから、40というのは人間が迷う年齢なんだと。だけれども、40になったら自分をしっかり持って、迷わない生き方をしたい、ということなんでしょうね。

「天命を知る」っていうのは文字通り、読んで字の如くですが、たしか五木寛之さんの本の中に、「天命っていうのは、自分が精一杯自ら努力することで、自ら定まってくるのだ」というようなことが書かれていましたが、天命というのは運命でも宿命でもなく、自ら努力することで理解できるもんだということでしょうか。まあ、そうありたいもんだと。

「六十にして耳従う」というのは60になると頑固になって他人のいうことはあまり聞かんというのが一般的だったようです。今はどうかな。だけどそうではなくて、他人の意見をしっかり聞きたいもんだと。

七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず」というのは、まあこれは凄い世界でしてね。そんなことはできませんね。きれいな人を見るとつい心がふらふらとなる。ちょっと口説いてみたいとか、そういう欲望はみんなもっているわけですよね。いやっ、みんなっていっちゃあいかんね。私はそう思っていますが。

だけれども、自分の欲することを行動しても社会規範を破らないっていうことなんでしょうね。しかし、これはね、孔子という人がそういう人かと見るとね、ちょっとつまらん。そうではなくて、そうありたいもんだと、考えればね、気が楽でいいですよ。そう行かないよね。そう行かないけれど、まあ努力してということなんでしょうか。この「論語」は大学に入ってからも、2人の教授から学んだのですが、ここのところをどのように話すかなと思って聞いていましたが、私が納得できるようなものではなかったです。しかし、宮下忠道先生の話は、ああそうだ、それなら俺でも生きていけるかというふうな思いをしました。


5.恥の文化、罪の文化

まあ、それからね、もうひとつお話しておきたいことがあるんですが、それは、アメリカのルース・ベネディクトという女性の社会学者、文化人類学者のことなんですね。この人は第二次世界大戦中に、日本の研究をした人です。日本では戦争中、アメリカのことは一切知ってはならんということでした。だから英語なんかも学校で勉強することを禁止されてしまったわけです。ところがアメリカでは敵に勝つためには敵のことを知らねばならんということだったんですね。孫子の兵法なんか実にそうですが、日本の戦争中の指導者は孫子も知らなかったのかねえ。

ベネディクトは、日本人の歴史的な考え方とヨーロッパの人の歴史的なものの考え方を比較して、日本の文化は、恥の文化であり、ヨーロッパは罪の文化であるといっています。罪の文化というのは、いわゆる自分の良心の叫びに従って生きていくという生き方。恥の文化というのは、恥ずかしいことをしないと、まあ一口にいえばそういうことです。特に罪の文化というのは、キリスト教を根底にしたものの考え方でしょうね。だから誰が見ていなくても、神様は見ているんだ、イエス・キリストは見ているんだ、というのが罪の文化の生き方でしょうね。日本の江戸時代、その前はよくわかりませんが、江戸時代以降、武士の社会なんかでも、明治になってからも、名誉を重んじるゆえに、恥ずかしい行動をとってはいけないと、恥ずかしい行いをすることは自分の名誉を傷つけることだと、だから恥ずかしい行動をしなければならないような状況に追い込まれれば、むしろ死を選んだわけです。切腹なんていうのはそういうところからきているんでしょうね。

ところが、戦後になると恥の文化というのは、変わってしまった。「免(まぬが)れて恥じなし」になってしまった。というのは恥とは人様がどう思うかということで、恥ずかしかったり誉められたりということになりますね。罪の文化は自分の良心にそって生きる、そのためには死をも辞さないということにもなるんでしょう。ところが恥というのは、名誉のためにということなんですが、人様の思惑だから、他人が知らなきゃ、恥ずかしくないということになるでしょう。だもんだから、「免れて恥なし」ということにもなるんですね。心して生活しなければと思います。


6.何のお返しも求めない愛。

愛というか愛情ということに話を戻さなければなりませんね。渡辺館長さんのところへもいろんな通信が送られてくると思いますが、私が公民館にやっかいになっていた頃も、やっぱいろんな情報、通信が送られてきました。その中のひとつに次のようなものがありました。ミニ通信なんですが、ちょっと読んでみます。                         
「年長組の男の子B君は、いまだに毎日のくらいズボンの中へウンチをしています。ウンチをお尻にはりつけていてもそしらぬ顔で、決して自分からはその不快さを訴えないのです。来年は小学校へ入学です。これだけはしつけてあげないと、これが原因でいじめの対象にならないとも限らないし、どうしたものか今本当に悩んでいます」と、いかにも困ったという表情で、その保母はふくよかな体をゆすりながら話した。「母親の愛情不足を保母に求めているのではないか」「あまり神経質に考えず、もうしばらく時期を待ったらどうか」というのが同僚たちの意見であった。

ところでB君にとって、何より喜ぶべきは、この保母に出会えたこと。それはお尻のウンチが時には鼻にくっつきそうだたり、時にはツメの間に入ったりしても、彼女は決して感情的にどなったり、たたいたりせず、まるごとB君をいとおしんでくれるからだ。これだけでB君は文句なしに仕合せ。お尻をきれいさっぱりふいてもらったB君の笑顔が想像される。このひととき、B君は誰もしらない自分だけの仕合せをかみしているのではないか。

この町にウンチのお尻を愛する一人の保母がいることを知っただけで、私はB君と同じくらい仕合せな気分である。大人だってやさしさには弱い。お互いが生きていく中で、今、一人の人間が傷つくことと、仕合せであることと、どちらが大事なんだろうか。彼女いわく、「私あの子の結婚式にスピーチを頼まれたら、ゆっちゃおう。ここにいる新婦よりももっと早くB君のお尻にさわったのは、このわたしですと」

何とゆかいな、ほんわかあったかい話ではありませんか。ウンチのお尻万歳。
                      
という話です。まあこういう保母さん、辰野にも、この人だけではなく、他にもいると思うけれども、これが無償の愛というものだと思いますね。何のお返しも求めない愛ですね。


7.母を思う。

最後にもうひとつ私の母についてお話したいと思います。私は母親をいまだに卒業できないでいます。私は母親に対する気持ちが、どうしようもなく辛いんです。ちょっと読んでみたいと思いますが、これは私が岡谷東高校の校長になって行った昭和58年4月、生徒会の新聞委員から自己紹介を兼ねて何か書いてくれと頼まれて「母と私」という題で書いたものです。 
                             
母が世を去ったのは、昨年の8月である。10ヶ月を超す入院生活の末、病院の片すみでひっそりと息をひきとった。喜怒哀楽を超越した静かな死であった。享年82歳、世間では大往生だと慰めてくれた。そして私もそう思うように努めている。

編集委員から自己紹介を・・・と求められた。母が逝ってから今日までジックリ母を想う機会もなくすごしていたので、この機会に母について私の感慨を綴って自己紹介としたい。
                            
母が生まれたのは明治34年、辰野町小野藤沢という小野駅から約4km、峠のような地形にできた集落であった。当時は養蚕業が栄え、特に原蚕種(種まゆ)の生産が盛んだったので、娘の頃は蚕の雌雄を選別する仕事で各町村を廻って歩いたとのこと。父親の会社が倒産して、人生の苦労が始まったようであった。このことは余り語りたがらなかったのか、詳しいことは覚えていない。

私の父の家は辰野町川島の川上という、辰野駅から11kmの谷あいの集落、バスの終点である。母はデコボコの石ころ道を5時間、人力車にゆられて父のもとへ嫁入ったという。しかも一度も会ったこともなく、写真を見たこともない夫のところへである。当時の結婚は、まだ「見合い」という習慣は珍しかったとか、写真で結婚相手を決めることが多かったようであるが、父母の場合はその写真もなく、「祝言」の日初めて見る夫であり、妻であったという。この話を聞いたのは何時頃であったろうか。

私には大変な衝撃であった。5時間も人力車でゆられながら、未知の世界に対する不安と期待、しかも深い谷間を奥へ奥へとゆられながら、若い母は何を考えたことであろうか。このことは一度聞いてみようと想いながら、ついその機会を失ってしまった。

80余年の生涯で60年近く婚家に生きて、終生働きとおしの人生であった母に、子供としての私はどうこたえてきたのか。わかりきったことではあるが、

  樹、静かならんと欲するも風止まず。
  子、養わんと欲すれども親待たざり。

の感がひとしお深い。

母は15年間に5人の子供を生み、その一人を早逝させた。当時の家庭としては一般的であったと思う。しかし3歳の娘を失った母の心の傷は深く、終生癒し難かったように思う。

私が小学校5年の秋であった。3歳にしては成長の早かった妹を連れて、私はよく近くの山野を散策した。それはふきのとう採りあったり、川のカジカ追いであったり、山ぶどう探しであったりした。何事にも興味を示して、誠に可愛かった。秋も深まる頃、妹は下痢が続いてだんだんやせていった。学校の授業が終わると家へとび帰っては、その容態に一喜一憂した。日毎に妹の顔から表情が消えて、遂に覚悟していた日が来た。

その日学校から帰ると、顔を白布でおおった妹の枕元で母はボンヤリ座っていた。まだ暖かであった。たまらなくなって外へとび出した私は、ところかまわずさまよい歩いた。せつなくてせつなくてどうしようもなかった。それから暫くの間は、顔を洗えなかった。というのは、自分でもよくわからないのだが、両手で水をすくって顔を洗う訳だが、顔をおおうのが苦痛でどうしてもできないのである。そうしている間に妹がどこかへ行ってしまうような気がしたのであろうか。

しかしどんなに悲しくても辛くても、人間はそれをのり越えてゆく底力を持っている。「時の経過」という特効薬がある。母には悲しみに浸っているヒマもなかった。妹が生まれ、弟が生まれた。しかし、どんなに多忙であっても母は仏壇への供茶を欠かさなかった。私にはそれが単なる習慣であったとは思えないのである。

子供たちが成長してそれぞれの職につき、郷里には父と母だけが残った。父母は百姓をしながら、相変わらず仕事に追われる毎日のようであった。そんな生活の中で、母は日記を書き続けていた。一年に大学ノート一冊、どのノートも最初の頁は元旦で始まり、最後の頁が大晦日で終わっている。

子供たちが帰省する前日の日記には、喜びが溢れている。去った日の文は、何かに耐えているという感じである。子供が勤め先に戻る時、母は必ずバス停まで送ってきた。そしてバスが見えなくなるまでたたずんでいるのである。夏の炎天下でも、冬の雪の中でも。おそらく家の中にジットしてはおれなかったのであろう。

私は長子として、そんな母を長い間見てきた。正月とお盆には子供たちが全員集まる。一年で一番楽しい時期だと思う。盆が終わって一人また一人職場へ戻っていく。それを見送る母の心情を想うと心が痛むのである。ある時「淋しいか」ときくと「もう馴れた」とつぶやきながら遠くを見つめていた母。父も母が逝って40日目にこの世を去った。頑固で我の強かった父も、母の居ないところでは、生きられなかったのであろうか。

母と子、血がつながっているということにどれだけの意味があるか、私は考えたことがない。しかし何十年かの生活を通して、母の愛は実感として犠牲的愛と言えるようの思う。

愛には「エロス」と「アガペ」があると言われる。「エロス」は男女の愛、「アガペ」は神の愛とか。男女の愛は必ず代償を求める。愛する心の背後に、同時に愛されたいという願いがある。神の愛は無償の愛、決して代償を求めない愛だという。母親の愛もこれに近い愛のように思う。

80歳近くなった母は脳軟化が異常に進んだ。10ヶ月寝たきりの病院生活は、母の生涯で最も心安らかな時期であったろうか。私は長野へ単身赴任で、土日のみ妻と替わって泊りこんだ。腰にリンゴ大の床ずれが出来たが、痛みも感じないようであった。「今帰ったよ、気分はどう」ときくと、「ああ、いい」と言って、大きな目で見つめるだけである。お盆休みの前夜危篤という電話でとび帰った。既に意識はなかった。血圧50、心臓の鼓動を伝える心電計もその波形が徐々に小さくなって、やがて一本の線となって消えた。

私は母に対して大きな借りを背負っている。もう返す母はいない。これからこの借りをどう返せばいいか。誰に返せばいいのか。こんなことを漠然と思っているこの頃である。
                             
生徒はこの文章に「母親の愛は無償の愛」という題をつけてくれました。とにかく親、親父もそうですが、特にお袋は、農家の主婦で一人前に百姓をしながら家事を全部こなす、非常にきついことだったと思います。小学校の頃、夏の夜、目を覚ますと、蚕の棚が家中にあったんですが、その蚕に母はいつも桑をくれていました。いつ寝るのかなと思いました。冬は父親と一緒に炭焼きです。雪の中で一日働いて、手が荒れます。手にアカギレがいっぱいできます。それへ、膏薬ですね、それを縒って、割れた指へ差し込んで、焼け火箸でじーっと焼くんですよ。膏薬の匂いとともに皮膚の焼ける匂いもするんですね。冬はその匂いが母の匂いだと思っていました。

貧乏なんですね。夏は養蚕で稼ぐ。特に繭が高く売れるときはよかったですね。一時一貫目10円で売れたときもあったんですが、しかし昭和4、5年、満州事変の前には一貫目が2円くらいに下がってしまった。そういうときはきつかったと思うけれど、ま、それでも現金が入った。母は常にその現金で冬中暮らせたらといっていた。冬は炭焼きの稼ぎではどうにでもならなかったので、今の農協ですね、組合から金を借りて、それで冬を送り、それを夏の蚕で返していたんですね。こういう循環を断ち切って、夏稼いだお金で一年間暮らしたいもんだとずっといっていました。

この母に聞いてみたいと思っていながら結局詳しくは聞けなかったことがあります。父と結婚の話が決まった直後に、母の従兄弟で、小野駅の近くでね、店をやっている羽振りのいい青年がいたんです。その青年から結婚の話があったんですよね。どうします、みなさんだったら。結婚の約束をした相手の顔もしらなきゃ何も知らない。山ん中の百姓ということだけ。だけど、そのね、父親も偉かったのかね、頑固だったのか、母は、「約束を守るのが人の道だ」と。そして5時間も人力車で揺られて、川上まで。今辰野駅から車で25分です。当時は大変なところだった。


8.良心の自由を大事にしたい。

私たち子供たちは何もしてやれなかった。その負い目でね、何とか、親には返せなかったけれど、社会に何とかと思っているわけです。うんと思うことは、さきほどお話した罪と恥ではないですけれど、敗戦の戦争裁判でね、ドイツのニュールンベルグ裁判があったんですね。同時に東京裁判もあったんですね。これは10日ほど前の新聞に出ていたんですが、そこでドイツのナチスの親玉のヒットラーは自害してしまったが、ゲーリックという人でしたかね、彼は「戦争の指令をだしたのは私なんだから、死刑にしてもらいた」といったらしい。東京裁判はどうかというと、「私は戦争したくなかった。しかし全体の空気で、一人だけでは逆らえなかった」というようなことを誰もがいったようです。誰も望んでいなかった戦争が起こっちゃった。

これが日本社会の問題点なのかなあ。個人で判断して、それに対して責任をもつという本当の意味で個人主義がなかなか根付かない。個人の判断ではなくて、集団の空気が動いて、みんなそれになびいてしまう。今の国会もそうですね。日本国憲法は平和憲法だ、戦争はしない、武器は持たない、戦場には出ないと、50年間ずーっとそういうことで通ってきた。つい最近自民党も、民主党も、賛成ですよね。何故か。世論がそうだ、日本の社会の空気がそうだ、ということでしょうか。

私は戦争が終わったとき、8月15日あの放送を聞いたとき何を感じたかというと、「あっ、俺はこれで死ななんですむ、長生きできるぞ」ということです。それまで私たちの年代は人生23年とみんな覚悟を決めていました。戦争で死ぬのはやむを得ん、当たり前なんだと思っていたんですね。そう思わなければ周囲が許さないという雰囲気もありました。だけどそのとき、死ななんですむと思った。そしてその後、平和憲法ができて、この憲法こそ私の拠り所だと思ってきました。

しかし最近は私もちょっと空気に流されているなと感じます。全体的な空気に抵抗するには勇気が要りますよね。最近読んだ新聞に、「今言論の自由や平和が足元から崩れているけれども、それに抵抗していく地方の小グループがたくさんできている。そのような小グループが多ければ多いほど、全体的な空気をはね返す力が大きくなるだろう」という主旨のことが書かれていました。その通りだと思います。このマンスリーサロンも小さなグループです。ボランティアセンターのグループもそうです。大きな声で抵抗はできないかもしれません。しかし良心の自由だけは大事にしたいと思いますし、そういう生き方ができたらなと思います。



小沢幸彦(おざわ・ゆきひこ):旧制松本高等学校修了、信州大学卒業、長野県高校教諭、岡谷東高等学校長、辰野町公民館長、辰野町教育長を歴任し、現在ボランティア活動に従事。


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