『祈り』ノート.
1.祈りの歌
この歌が生まれたのは、不思議に満ちた幸せな連鎖反応のおかげである。「アメイジング・グレイス」としか言いようがない。それは2008年の初め、辰野教会副牧師の長谷川ひさいさんから日野原重明著『わたしが経験した魂のストーリー』(キリスト教視聴覚センター)をいただいたことから始まった。
その数ヶ月後に行なわれた「第12回三浦久ほたる祭りライブ」の中で、朗読と歌のコラボレーションを企画したところ、朗読をお願いした坂本生子さんもこの本を持っていて、その中の一章を読むことを希望されたのである。それは山川千秋さんの壮絶なガンとの闘いを扱った章で、当初、その内容に合わせ、ボブ・ディランの「死は終わりではない」を歌う予定だった。しかしリハーサルを重ねるうち、その章で紹介されている山川さんに勇気を与えた「病者の祈り」という詩に曲をつけて歌ったほうがいいということになった。
ところがそのままではどうしても曲がつかない。その本の中に与えられていたわずかな情報を手がかりに、インターネットで検索したところ、幸運にも原詩を探しだすことができた。その詩をぼくなりに訳し、言葉を加え、曲をつけた。完成したのはコンサート前日だった。
詩の作者は南北戦争時代の南軍の無名兵士だった。それでタイトルを最初「ある無名兵士の祈り」にしたが、より普遍的なものにしようと、最終的に「祈りの歌」にした。
コンサート当日、朗読が「病者の祈り」にきたとき、その詩を朗読してもらう代わりに、「祈りの歌」を歌った。聴衆の心に、歌の言葉が一語一語入り込んでいくのがわかった。その後、各地でこの歌を歌ったが、どこでも大きな反響があった。山川さんを感動させた原詩のもつ力が、人々の心を打ったのである。
その後、更に不思議に満ちた幸せな連鎖反応が起こり、2009年7月には、安曇野の山荘で開かれた鳥居勇夫先生主宰の聖書研究会に参加することを許され、日野原先生の前でこの歌を歌わせていただく幸運に恵まれたのである。
この歌をぼくのところに届けてくれた多くの方々のご協力と祈りに感謝いたします。
2.果樹園の道
韓国のシンガー Ryu のアルバム『おとぐすり』で初めて聞いたときから大好きな歌になった。初めは、ヨン・ジンスク先生(信州大学・韓国語)から発音の指導を受けて韓国語だけで歌っていたが、そのうちに歌詞カードにあった概訳をもとに、ぼくなりにイメージを膨らませて和訳し、日本語でも歌うようになった。この歌が多くの人の心を打つのは、おそらく誰の心の中にも、穢れを知らない幼い頃の記憶があるからにちがいない。
3.花語らず
この歌は南禅寺管長だった柴山全慶老師の同名の詩に曲をつけたものである。1969年7月10日の日記に「夜遅く急に老師の詩を思い出し、曲をつけ始めたら10分足らずで出来上がった」と書かれている。当時ぼくはカリフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)を卒業したばかり。帰国する一ヶ月ほど前のことだった。
老師に初めてお会いしたのは、その年の2月11日、サンタバーバラ空港へフリデル先生と一緒に老師をお迎えに行ったとき。翌日老師はUCSBのホールで千人の聴衆を前に講演された。そのとき侍者として随行されていたのが若き雲水、福島元照さんだった。後の東福寺管長福島慶道老師である。
講演のあと、フリデル先生を通して柴山老師に坐禅の仕方を教えてほしいとお願いした。その晩、老師はぼくのアパートへやってきて、20名ほどの宗教学専攻の学生に坐禅の仕方を教えてくださった。後年、福島老師から「日本だったら南禅寺管長が学生のアパートへ行って坐禅の指導をするなんていうことは考えられない」とお聞きしたことがある。
その晩参加した学生たちは皆、老師と、老師が説明している間、警策を前に置き、微動だにせず坐っていた福島さんに感銘を受けた。そのうち3人はUCSB卒業後、アメリカと日本で雲水になった。ぼくは雲水にはならなかったが、1969年9月から13年間京都に住んだ。その間お二人には大変お世話になった。特に福島老師からは宝福寺と東福寺にて坐禅の指導を受けた。
柴山老師は1974年8月、そして福島老師は今年の3月お亡くなりになった。「花語らず」は、かつて『ガビオタの海』(1999年)に収録したが、お二人を偲びつつ、今回新たに録音しなおした。
永遠にほろびぬ生命のよろこびが
悔なくそこに輝いている
4.中谷勲
中谷勲のことを初めて知ったのは、昨年7月、朗読の会「ひびき」の研究会で、辰野町に縁のある何人かの人物について「臼井吉見の『安曇野』を歩く」(市民タイムス)の著者赤羽康男さんが語ってくれたときである。そのあと「ひびき」の赤羽やよいさんから、それらの人物の誰れでもいいから、歌が書けないかと頼まれた。話を聞いて感動したのは中谷勲だった。歌ができたのは、今年3月「ひびき」の発表会直前だった。岡本みほこさんが絵本『白樺教師中谷勲』(郷土出版社)を朗読したあと、この歌を歌った。会場には中谷勲の姪にあたる方もお見えになっていて「おばあちゃんにも聞かせてやりたかった」と涙を流して喜んでくださった。今年6月の「ほたる祭りライブ」にはさらに多くの親族の方々が聞きにきてくださった。歌を書いてこんなに喜んでいただいたのは初めてのこと。辰野町のみならず、全国の多くの人々に知ってもらいたい人物である。
5.電線の上の一羽の鳥のように
昨年12月10日午後3時、成田からラスベガスへ向かった。レナード・コーエンの73歳のときに始まった3年にわたるワールドツアーの最終コンサートを聞きに行くためである。飛行機の中で「どこまで歩きつづけても追いかけてくるよ/あのレナード・コーエンの淋しい歌声が」と始まる「電線の上の一羽の鳥のように」(『ポジティブリー寺町通り』1979年)を口ずさんでいたら、途中で気づいた、まったく違うメロディで歌っていることに。あわてて ICレコーダーを取り出し周りの人の迷惑にならないように小声で吹き込んだ。歌詞も最後の部分がオリジナルとは違うので、新曲といっていいかもしれない。
6. 雨ニモマケズ
2007年11月、垣内勝司さんが、町の民生児童委員会会長を退任されるとき、副会長をしていた妻にこの詩の朗読を依頼したことがきっかけでできた歌。彼女が繰り返し大声で練習するのを聞いているうちに、いつのまにか頭の中にメロディができあがっていた。この歌を初めて人前で歌ったのは、今年6月の「ほたる祭りライブ」である。歌おうと思った理由はいくつかある。ひとつはこの詩のモデルだったといわれている斉藤宗次郎の生き方に感動したから。もうひとつは賢治が生まれた明治29年にも東北で2度にわたり大きな地震や津波があったと知ったから。2度目の地震は賢治が生まれて5日後のことで、お母さんは赤ちゃんの賢治が入った籠を抱きかかえ、念仏を唱えていたという。
7.新しい光迎えよう
2002年6月、札幌の千歳空港のホテルに泊まった。その数日前にお会いした絶望のどん底にいる人のことを思いながら、まんじりともせず一夜を過ごした。夜明け前、カーテンを開けると、地平線に光が射し始めていた。その美しさに感動して、その場でできた歌。2004年の『千の風』に収めたあと、多くの方々から「勇気づけられた」「元気が出た」という言葉をいただいた。今回はアカペラで歌ってみた。亡くなった多くの方々への鎮魂の思いを込めて。
8.カムサハムニダ、イ・スヒョン (ライブ)
イ・スヒョン君が亡くなってから今年の1月26日でちょうど10年経った。その日は、四谷の主婦会館で「イ・スヒョン君を偲ぶ会」が開かれた。第一部では、日本と韓国の要人の挨拶と献花のあと、スヒョン君のお父さんの講演があった。「英雄にならなくてもいいから、生きていてほしかった」という切々たる言葉に胸を打たれた。第二部の交流会の前、ご両親に挨拶に行った。ぼくを見るとお二人ともびっくりされ、本当に嬉しそうに微笑んでくださった。その笑顔を見ることができただけでも参加してよかったと思った。初めてお会いしたのは、2002年5月、息子さんの母校高麗大学で開かれた追悼コンサートで歌わせていただいたとき。その年は3度韓国を訪問し3度ともご両親にお会いした。2度目のときは釜山のお宅をお訪ねし、この歌のCDをお渡しし、墓参もさせていただいた。収録したトラックは2006年12月の吉祥寺マンダラ2でのライブヴァージョン。
9.碌山(ライブ)
2000年8月にこの歌を書いてから、多くの場所で歌ってきた。毎年4月22日の碌山忌には碌山美術館の中庭で歌わせていただいている。どこで歌っても、荻原碌山の純粋で一途な生き方に多くの人々が感動しているのが伝わってくる。彼の残した言葉は、まさに「祈り」である。
蕾にして凋落せんも亦面白し。天の命なればこれまた
せんすべなし。只人事の限りを尽くして待たんのみ。
事業の如何にあらず、心事の高潔なり。涙の多量なり。
以て満足すべきなり。
このトラックも2006年12月の吉祥寺マンダラ2でのライブヴァージョンである。
■
2011年は、人々の記憶に残る年になるだろう。100年後、1000年後、歴史家たちは言うかもしれない。人類の生き方が変化したのは2011年だった、人類の意識が進化したのは2011年だったと。夢物語かもしれない。でも今年の初め、現代の「バベルの塔」が崩壊したあと、世界中の人々が心をひとつにして祈り、援助の手を差し伸べてくれるのを見たとき、一瞬、それは夢ではないかもしれないという思いが脳裏をよぎった。
このアルバムは、そんな夢や願いを込めたぼくの「祈り」である。
2011年10月28日 三浦久
Musicians:
三浦久:vocal, guitar, harmonica
野間義男:guitar
関島岳郎:tuba, recorder, tambourine, organ, xylophone, taishou-goto, cornet, synthesizer
中尾勘二:klarinette, gorosu, saxophone, drums
向島ゆり:violin
太田裕士:piano
原田和恵:background vocal
Personnel:
Produced by 三浦久
Arranged and directed by 関島岳郎 (the first five songs)
Recorded, mixed and mastered by 石崎信郎
The first 7 songs recorded at OREAD Studio (March 29, 30 & Sept 5, 6, 2011)
The last two songs recorded live at Mandala 2, Kichijoji, Tokyo (Dec 23, 2006)
Mixed and mastered at Studio Stone Cap in Tokyo (October, 2011)
Jacket design: 石崎芳夫
Jacket photo: 垣内彰
Photo of Rokuzan’s “Woman” : 碌山美術館提供
Other photos: 三浦久