エイミー・ビールについて


「21世紀になれば」「21世紀には」と、誰もが21世紀を待ち望んでいた。20世紀は戦争と殺戮の世紀だった。しかしこの新しい世紀が始まってわずか9か月で、世界は再び地獄を見ることになった。

2001年9月11日はアメリカでは、ボブ・ディランの新しいアルバム Love and Theft (愛と盗み)の発売日だった。いつもより遅れて届いた HWY61-L というメーリング・リストの投稿者の多くが、CDを買いにいく気になれないとか、手には入れたがどうしても聞くことができないと書いていた。

その中でハワードという人が、数日前に聞いたという話を投稿していた。彼が、ワールド・トレード・センターの悲劇の起こる3日前に、エイミーという女性の両親から直接聞いたというその話を次に要約しよう。

エイミー・ビールは、大学卒業後、アパルトヘイトが終わりつつある南アフリカへ行った。ネルソン・マンデラが彼女の英雄で、彼女は歴史的な平和と和解のプロセスに参加したいと強く思った。

彼女は1年間ボランティアとして働いた。そしてアメリカへ帰る日の2日前、4人の黒人の若者に車から引きずり出され、殺されてしまった。4人は裁判にかけられた。彼らは、彼女について知っていたことは、彼女が白人だということだけだったと言った。裁判長は彼らに懲役18年の刑を言い渡した。

しばらくして、エイミーの両親のところへ南アフリカから1本のビデオテープが届いた。それは、殺人犯の1人の若者の母親が泣き崩れながら、エイミーの母親に許しを乞うているテープだった。このテープがエイミーの両親を変えた。

彼らはエイミーの生と死が意味を持つことができるためには、娘の理不尽な死に対する怒りや悲しみを乗り越えなければいけないと感じた。そして、その事件を引き起こした社会的・文化的な背景を理解しなければならないと感じた。

4年後、4人の若者は、「真実と和解委員会」に恩赦を願い出た。エイミーの両親は、委員会に恩赦を認めるよう嘆願するために、南アフリカへ渡った。南アフリカへ行く前に、彼らは、会社も家も売り、さらにいろんな団体から寄付を募り、「エイミー・ビール財団」を設立した。

今日、数百人の人たちがエイミー・ビール財団と財団が支援する会社によって雇われている。エイミーの両親が最初に雇ったのは、エイミーを殺した4人の若者だった。彼らは今、財団を担う中心的な役割を果たしている。

ハワードは次のように投稿を締めくくっている。

彼らの話を聞いたとき、どうしてそんなことが可能だろうかと思った。言葉では理解できる。しかし、自分の娘に同じことが起こったら、彼らのように行動することは無理だと思った。しかし、今日の悲劇を目撃した後、ぼくはエイミーの両親と同じ場所に立つことを学ばなければならないと感じた。しかも今すぐに。時間はあまり残されていない。ぼくは今、世界の指導者たちが、人類のために、エイミーの両親が立っている場所に行くことができる地図を作成することを切望する。手遅れになる前に。( 三浦久「ぼくが出会った歌、ぼくが出会った人」より)


Amy Biehl Foundatin in Cape Town:
ケープタウンにあるエイミー・ビール基金:

https://www.facebook.com/AmyBiehlFoundation


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