三浦久の「アルー」     by 浜野サトル


ある歌が好きな理由を「なぜ?」と問われても、答えに窮することが多い。歌は感情の領分に属するものであって、聴き手もまた感情の内部で歌を受けとめる。どれほど好きな歌であっても、いや好きな歌だからこそ、言葉による外側からの意味づけはどうしたってはばかられるのである。

僕にとって、そういう歌の一つに三浦久の「アルー」がある。この歌に出合ったのはいまから4年ほど前、長野に住む彼からCD『セカンド・ウィンド』が送 られてきたときだった。僕は三浦久のことを「いまの日本からは絶滅しつつあるバラッド歌い」などと呼んで失笑をかったりしているが、その印象は実はこの CD、なかんずく「アルー」から始まっている。

彼の歌に一度でもふれたことのある人ならよくご存知のように、実際、彼のつくる歌の多くは長い長いバラッドである。ことに「純ちゃん」「ミン・オン・ トゥイーのバラード」「フランチェスカ」といった歌はおそろしく長い。長いだけに、1度CDをさらっと聴いた程度ではなかなか歌の内容を充分に把握するこ とはできない。

「アルー」もまた長い歌である。彼の代表作「純ちゃん」はおよそ8分の長さの歌だが、「アルー」にいたってはCDのデータを見ると9分近い。それなのに、 『セカンド・ウィンド』をはじめて聴いたとき、この歌にだけはなぜかすっと引き込まれた。いまは「純ちゃん」はもちろん、タイトル・ソングの「セカンド・ ウィンド」もその他の曲も、このCDにおさめられている歌すべてが掛け値なしに好きだが、そうなったのは何度か繰り返して聴き、あるいは時間をおいて聴き 直してみてからのことで、最初から何の抵抗もなしに受け入れることができたのは、やはりこの「アルー」だった。

充分な回答など得られるはずもないことを承知で、だからいま「なぜこの曲に惹かれたのか、この曲の特徴と美点は何なのか」と、自分に問うてみる。以下、思いつくままに書こう。

三浦久が創るバラッド・タイプの歌はテーマから見ると基本的には社会の動きやそこで生きる人々への彼自身の関心に発していて、例えば「純ちゃん」は不登校児の歌であり、「セカンド・ウィンド」は中国の天安門広場事件やベルリンの壁の崩壊から彼がつかんだ〈第二の、新しい風〉を歌い込んだ歌である。

歌詞を 丹念に点検すればわかるように、彼の歌はすべて彼自身の内面を濾過して生み出されてくるから、いわゆる〈トピカル・ソング〉とは別種のものだが、とりあえ ず「社会派」とやらに分類してもまあまちがいではない。

その点、「アルー」ははっきりと性格が異なる。歌われているのは、彼(正確には歌の主人公)が一羽のオウムと出会い、一緒に暮らし、やがて別れることになるまでのプライベートな顛末の記録である。

「純ちゃん」や「ミン・オン・トゥイーのバラード」が発するメッセージを聞き取るには、聴き手の側にも社会に対する関心や考える力が必要である。あるい は、「セカンド・ウィンド」を本当に自分自身のものにするには、「何が自分にとって第二の風なのか」という問題意識が共有されなくてはならない。しかし、 「アルー」は違う。

「アルー」は、次のようなさりげない日常の1シーンから始まる。

  ある日ぼくは散歩に出かけた
  頬をなぜる風が柔らかい
  鼻歌を歌いながら坂を下ると
  ぼくの名前を呼ぶ声がする

  振り向いても誰もいない
  ぼくはゆっくり歩き続ける
  それでもまだ声が聞こえる
  確かに誰かがぼくを呼んでいる

「自分の名前を呼ぶ声」の主は、暗い路地に店を構える一軒の小鳥屋の中にいた。籠の中に閉じこめられたオウムが、偶然、彼の名前をしゃべっていたのだ。 しかし、そのことは彼には単なる偶然とは思えなかった。だから、手持ちの金が不足だった彼は小鳥屋の店主を押し切るようにしてまでそのオウムを手に入れる ことになる。

続いて描写されるのは、彼がアルーと名づけた一羽の鳥との幸福な共同生活である。 

  このようにしてアルーとぼくとの
  二人の生活が始まった
  アルーの好きなものはひまわりの種と
  ブルースとバッハを聞くことだった

  半年が過ぎ、一年が過ぎ
  アルーとの楽しい日々が続いた
  籠から出しても、もうどこへも
  飛んで行こうとはしなかった

しかし、やがて破局が訪れる。

  ある日、家に帰るとアルーがいない
  窓が半分、開いている
  青い羽根が散らばっている
  何かに襲われたに違いない

  夕闇せまる外に飛び出し
  アルーの名前を呼びながら
  家のまわりを探してみたが
  どこにもアルーはいなかった

  すがる思いでもう一度
  アルーの名前を呼んでみた
  その時かすかに聞こえてきた
  ぼくの名を呼ぶアルーの声

長々と歌詞を引用したのはいまだこの歌にふれる機会を得ていない人のためにイメージをつかんでもらいたかったからだが、よほど鈍感な人でないかぎり、あ るいは生き物がよほど嫌いな人でないかぎり、これだけで歌の世界は半ばつかめたも同然だろう。そう、これは一羽の鳥を友人のように家族のように自分の分身 のように愛し、悲劇に見舞われた男の哀しい追憶の歌だ。

歌の後半では、脇腹をえぐられ血まみれになったアルーがいちいの木からどさっと落ちてくる様子が描写される。そして、アルーは死ぬ。それは、ペットという名の愛玩物ではなく、家に帰った自分をあたたかく迎えてくれる「かけがえのない存在」の消滅である。

しかし、この歌の本当の魅力がわかるのは、主人公がアルーの亡骸を大好きだったひまわりの種といっしょに庭に埋め、やがて季節がめぐって夏が来たときの、最後に置かれた次の情景にたどり着くときである。

  今、強い夏の日差しを浴びて
  ひまわりの花が咲き乱れている
  風が吹いて揺れるたびに
  アルーがぼくの名を呼ぶ声がする

風に揺れるひまわりの花々。どこにでもある、身近な光景である。しかし、僕はそんななにげない光景がこれほどの美しさをもって迫ってくる例を他に知らな い。アルーを埋めた豊穣な土に育まれた種はいつしか芽をふき、花を咲かせる。それは、まるでアルーの生命が蘇ったかのようである。作者である三浦久の「生 命」に対する憧憬の声を、そこから感じとらないではいられない。

12月21日。東京は国立市谷保の酒場「かけこみ亭」。「語り歌の継承」と題されたジョイント・ライブが午後の三時からここで開かれ、館野公一と仲間た ちがまず登場してストーリー性の濃い歌を次々に披露した(深夜の闇の中を走るバスの中で去来する思いを歌いこんだ「夜を走る」という作品は傑作である)。 続いて、三浦久が登場した。

長い歌が数曲続く時間があっという間に過ぎて、彼は「これはいつもはライブでは歌わない作品です」と前置きして、次の曲に入った。「アルー」だ。僕に とっては記憶の中に完全に定着しているはずの歌の言葉が、野間義男の美しいギターのサポートを得て、ひときわ新鮮に響いた。

  秋が終わり、冬が去り
  そして春が巡ってきた
  アルーを埋めた庭の真ん中
  沢山の芽が顔を出した

人が歌から得るものは本来さまざまであって、それがただの退屈しのぎであっても他人が文句をさしはさむ余地はない。しかし、歌によって自分自身の内面深くにある眠った部分が不意に揺り起こされることがある。そのとき、歌を聴くことはかけがえのない体験になる。

「アルー」にもどっていえば、動物その他の生き物をただ身近に感じるだけでなく、対等の存在としてつきあえる人間は、いうまでもなく子供たちである。いいかえれば、「アルー」は子供の心を持った歌だ。物語そのものが、三浦久の実体験であるのかどうかは知らない。しかし、これは彼の内にいまもすむ少年が書 かせた歌だ。

「アルー」を聴くとき、50歳の僕もまた一人の少年になる。(1997年12月)

*浜野さんの許可を得て、青空文庫の「新都市音楽ノート」HTML版より転載させていただきました。July 23, 2008